参考文献、2002/11/16(ふるさとウォーク)、白浜中央公民館、資料1、大原満著

@、磐白(いわしろ)の 浜松が枝(え)を

   引き結び 真幸(まさき)くあらば

   また還り見む

解釈

 「岩代の浜の松の枝を引き結んで(神に祈っていくが)、幸いにも無事であったら、またここに立寄ってこの松を見たいものだ」

A、家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を

   草枕 旅にしあれば

   椎の葉に盛る

解釈

 「都の家であれば美しいお椀に盛って食べられるのに、今は旅、しかも捕われの身、椎のに盛って食べることよ」

 (有間皇子、巻二、一四一、一四二)

 有間皇子は第36代孝徳天皇の皇子で、大化の改新で有名な中大兄皇子とはいとこに当る。大化の改新後、朝廷権力を実質的に握っていたのは中大兄皇子であり、当時の孝徳天皇は傀儡{(かいらい)操り人形}的な存在だった。

 ある時、中大兄皇子は難波から大和への還都を主張するが孝徳天皇はこれに反対する。しかし、中大兄皇子は皇后の間人皇女(はしひとのひめみこ)、皇極上皇(実母)をはじめ、大勢の公卿を連れて強引に大和へ還ってしまう。このことに落胆した孝徳天皇は病の床に伏し、そのまま崩御してしまう。悶死(もんし)ともいえる死であった。有間皇子の悲劇的事件にはこのことが背景にある。

 また、皇位継承の候補者の一人であった中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)も、謀反の疑いをかけられ自殺している。歴史の教科書では「大化の改新のヒーロー」として知られる中大兄皇子であるが、このように権力志向が強く、孝徳天皇の皇子として生まれた有間皇子の身も楽観は許されなかった。

 孝徳天皇の後を受けて斉明天皇{皇極上皇の重祚(じゅうそ=一度位を退いた天皇が再び位につくこと)}が即位する。その二年後(斉明三年)、身の危険を感じたのか、有間皇子は狂人をよそおって紀の温湯(白浜温泉)に療養にでかけ、帰京後、紀の温湯のすばらしさと病気の快癒を斉明天皇に報告する。天皇はこのことを喜び、明けて斉明四年十月、天皇一行は紀の温湯へ行幸にでかける。

 都が留守の中、留守官の責任者蘇我赤兄(そがのあかえ)は有間皇子に向って斉明天皇の失政三ヶ条を告げる。これを聞いた皇子は赤兄が自分に好意を寄せていることを知って喜び、こう叫んだ。「吾が年、始めて兵を用ゐるべき時がきた」。

 二日後、 皇子は赤兄の家に行き謀反の密をめぐらせた。その時、突然皇子の脇息(椅子の肘かけ)が折れた。皇子は不吉な前兆を感じたのか、計画をひとまず見合わせて帰宅した。ところがその夜半、赤兄は部下に命じて皇子の家を取囲んだ。赤兄の乱心か、はたまた筋書き通りの展開か。即刻、紀の温湯の斉明天皇、中大兄皇子のもとに知らせが飛んだ。

 謀反の企てのかどで捕らえられた有間皇子は、行幸先の紀の温湯(白浜温泉)に護送される。その途中、南部町の岩代(この地は自分が裁かれるであろう紀の温湯を望むことができる)で上記の歌二首を詠んだ。浜の松の枝を結び合わせて、この歌を詠み、我が身の長からんことを祈った。当時、植物の枝や葉を結び合わせると、願いが成就するという信仰があった。紀の温湯に着いた有間皇子に中大兄皇子はこう尋問する「何の故か謀反(みかどかたぶ)けむとする(どうして謀反を企てようとしたのか)」−−−−。

 有間皇子、これに答えて曰く、「天と赤兄と知る。吾、全(もは)ららず(神と蘇我赤兄が知っている。私は全く何も知らない)」−−−−。

 この時の詮議は不問に終わり、有間皇子の願い通り再び岩代の地を通ったのもつかの間、数日後には海南市の藤白坂で絞殺されてしまう。

 時に皇子は十九歳。「悲劇の皇子(プリンス)」と云われるゆえんである。