湯崎温泉記 (原文は流詞な漢文であるが茲では普通文とする) |
「日本国中の温泉は数限りない程多くあるが、その最も昔から有名なものは、伊予の熱田津、摂津の有馬、紀の牟婁で牟婁温泉中名の古いものは湯崎と湯の峯である。古史によれば地名を指さず、広く紀の温泉と呼んでいた。日本書記によれば斉明天皇四年冬十月、帝が紀の温泉に行幸ぎれたとあるこれより先、有馬皇子が来られて、牟婁の温湯に浴し、帰って帝に申し上げるに、牟婁の地は景色にすぐれ此処で入湯すれば、病は自ら治すことが出来ると。帝はこれを聞いて 南巡の意を決し、皇太子を伴い、湯崎に行幸された。又書記に持統天皇四年の九月、天皇紀伊に幸すと記され、続記には文武天皇大鳳元年九月には太上天皇紀伊の国に行幸し、冬十月天皇車駕牟婁の温泉に至ると記されてある。この時二聖相共に湯暗に行幸されたのであった。持統帝は前後二回に及んでいる。この地古くから温泉の美と海や山の勝れた眺めが有名であったのである。今昔から伝って、御船客、御幸の芝と称する所は、臨幸の遺跡であるという。 この他は実に大海に突出した半島で、その形は竜のわだかまった様であり、北は田辺城と対し、その間に田辺湾を抱いて、長汀曲浦が連り、漁村が点綴し、島が散在して、この形も又ふしぎな趣があって、形容する言葉に苦しむ程である。高い所に上って眺めると北に、けわしい口熊野の山々が、濃淡の彩を分って、畳みかけて奪え、西及び南は大海万里砂々として際りなく、船舶が波涛、煙雲の中に出没する。誠に南海の壮観である。有馬王の「病を除く」の言葉も亦真実であって、此所には温泉が五ケ所あり、元の湯、浜の湯、屋形の湯、崎の湯、摩舞の湯と呼び、元の湯が最も古くから使用されていたと故老は言う。温泉に付いて 曾て医に尋ねた場合、稲生若水の論ずる所に、凡そ地中に火脈があり、又水脈もある。この二脈が相交って温泉となる。共の性極熱で物に触れると変ずる。又温泉必ず硫黄を生ずるが、これは温泉の 滓である。顧りみるに、この地は元鉛山と称し鉛を産出した所である。鉛の性質は毒なく、熱に触れて、和らぎ且硫黄気を少くする。温柔病に効くため、副作用が伴う事がない。これが此の湯の貴い所以である。昔から聖駕を相ついで迎えたのは、この為であったろう。即ち気を助け、体を温め、便秘を通じ、関節を柔らげ、持病を医し、瘡を癒する等この湯の効目のある所で、諸国から入湯に来る客には十分わかっている事と思う。その上勝れた景観と交々助け合って病を除く点、有 間王の褒め称えた通りである事を知らねばならん。 私が命を受けてこの地を巡った際、村長某氏が来て言うには我が村の温泉を賞してくれたのは遠い昔の人、どうか其の事を記して、この地に来湯する者の考慮の一如になる様お願いしたいと。そこで此の事を書して石に刻んだ。 天保壬辰歳孟冬 仁井田好古撲 参考文献 熊野名勝詩 昭和51年夏 畔田鯉水 |
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