紀南郷導記の記載    年代参照

△鉛山邑 此所にも温泉四坪有、此内マブノ湯と云ふは在所より東に在、筋気脚気冷病によしといふ、屋形之湯は小瘡を治する事奇妙なり。

此山上に薬師堂有、作不知開帳鳥目百銭也、堂守邑土人三太夫と云ふもの此所に来て居住す。

元の湯は下疳、諸瘡毒によし、往昔親鸞上人此湯に入られしと云伝ふ、然は門徒の湯と云へきか、崎の湯と云は万病によしと云、第一に手負打身打傷に入湯すれば忽平癒すと云り、此湯坪は自然石にて薬師の形なりと云、其長さ二間余、湯口は御頭の形也。此湯には前君も度々浴あそばされしと也、右四坪なから上屋有之、最浜辺なるゆへに所在より行に足場悪し。鉛山邑と瀬戸浦の間に小坂少し有、坂下古より瀬戸浦迄を白良濱と云、此濱の砂極て白し、外へ持行は色変ずと 云伝へたり

 山家集  西行

浪よする白良のからすかひ、ひろいやすくも思ほゆるかな

此浦鳥貝の名所也と云

 家 集  兼盛

君か代のかつともとらむ紀の国の白良のはまにつめるまさこを

又此濱を走湯濱とも云へり、浪内際を掘ぬれば其儘温泉湧出る也

 堀川百首 仲實

ましらゝのはまの走湯浦さひて今は御幸のかけも移らす

又此所白貝の名所にても有にや但源順が和名集には白貝と書ておふかひと訓せり。

 斎宮歌合  読人不知

月影の白良の白貝の浪もひとつにみえ渡るかな

しかれば此歌もおふかひと可読にや知人に可尋、在所の中に小さき小川有、橋かゝれり。

△瀬戸浦邑 私曰村か在家有、高二百一石余也、前は砂濱也、出崎に当番所有、寛永二十年(1643)より始るなり、安藤千福直栄の預の所也、故に預り侍横須賀三十余人の内一人づゝ三十日代りにて勤番なり、後世三十余人を与力などゝ云なすは誤なるよし小松原氏物語也、番所の東南に権現崎小社あり。

△瀬戸浦の山にトクロの宮と云て社有華表より内にて木葉一つにても取れは忽煩と云、此宮を俗に誤て藤九郎の宮と云へり、昔頼朝卿の長臣盛長、此所に流罪せられ卒す、則神に祀しと也、謬誤也

瀬戸の在家より西に先君の御殿有し今は廃せらる也、此間にムバメ谷と云所あり海際也浪うちきわに色々の美しき小石多し、拾つて盆山に敷く也。此浦にて春秋鰡を捕り塩に漬け商売す。故にカラスミ多し、亦鉛山の上にも先君の御殿あり、今はなし、統て此邊の山には桔梗多し此山は右の薬師山に継けり。

鉛山邑、瀬戸浦海中にはサクラノリ、青苔、ツルモ一葉、和布多し小蚫等多し。

△瀬戸浦より田邊迄の海上凡そ二里許り、陸路は五里、瀬戸より北の浦つゞき東へつたひ田尻、綱不知、在家有、風莫濱はつなしらすと云ふ名所也と、海底に立貝と物多し、エボシ貝とも言へり、其形鮑に似たり。

 万葉集九 長農意吉麻呂

かさなきの濱の白浪いたづらに爰によりくるみる人なきに

注、小瘡の瘡は読み、さう。意味は@きずAかさ・できものBそこなう

注、下疳の疳は読み、かん、こん。意味は小兒のやまい、かん

注、其儘は読み、そのまま

注、塩という文字は「えん」という旧漢字で意味が塩でした。

注、紀南郷導記は元禄の末紀藩士兒玉荘左衛門尉、前君(南龍公)の命にて依りて選すといふ。

安藤千福直栄は田邊藩第三代の主安藤義門のことで幼名は千福丸、直栄と称し後ち義門と改む寛永十三年(1636)家督を継ぎ承応三年(1654)に没す。 「安藤千福直栄の預の所也」の句より見れば郷導記は承応に成りたるが如く見らるるも、寛文に薨したる南龍公を前君と記せるに見て元禄ものとするを正しとす。当時温泉は鉱の湯、屋形の湯、元の湯、崎の湯の四ヶ所なりしことを知るべく、

注、寛永はは1624年〜1643年、承応は1652年〜1654年、寛文は1661年〜1672年

元禄は1688年〜1703年