紀伊続風土記の記載 年代参照 |
鉛山村 迦奈也萬 田畑高 瀬戸村の内に籠る 家 数 七十一軒 人 数 三百二十一人 瀬戸海湾の内白良濱より坤温泉のある所鉛山の領なり村名鉛を掘りたるに起る続日本紀に大寛三年五月令紀伊国阿提飯高牟婁三郡献銀とあり当郡にて銀の古く出し地詳ならず此地古に顯れし地にして鉛の出し地なれば銀の出しは此地の事ならん村の坤の山燈明台の邊に鉛を堀たる鉱穴多くありいつの頃まで鑿りしか元和の頃の下文に猶鉛を掘る定書等あれども其事は既に絶たりと見ゆ今の人家は皆鉱徒居留りて村居をなしたるより遂に一村となれり此地奮より耕すべき田畑なければ浅野氏の時屋敷地畠とも合せて高五石二斗五升余を免許す元和の後期に仍りて是を免し給ひ且網を作りて漁をなさしめ 又其海税をも免し給へり土地奮鉛を出すを以て鉛税を貢する地なけば温泉の湯料を村中に与へて右の内にて歳貢を定めて鉛税の代となさしむ凡四方温泉ある所多く山渓幽僻の地なるに此地は海濱にありて風景絶勝なれば四方の浴客日に集り歳に増して今は村中六十余戸皆浴客の旅舎となり飲食玩好歌舞の類に至るまで都会の地に羞ざる様になれり村居三つに別れて上野場本町村出といふ。 ○小詞二社 衣美須社 社地周八十四間村中にあり 山神社除地村中濱の山の上にあり拝殿あり ○来迎寺 湯崎山 境内周五十間 浄土宗鎮西派田邊城下龍泉寺末 村の東にあり本堂僧坊鐘楼等あり。 ○金徳寺 境内周四十間 浄土眞宗西派本願寺未 村中にあり本堂僧坊あり。 ○温泉 元ノ湯 屋形ノ湯 摩舞湯 濱ノ湯 崎ノ湯 外に阿波湯、目洗湯などといふ小さき湯壷あり。 日本紀 斉明天皇の御巻に有間王子往牟婁温湯といひ又続記 文武天皇大鳳元年九月幸紀伊国十月 車駕至武漏温泉といふ是なり今は湯崎といふ元ノ湯崎ノ湯二つは古の湯壷と見え自然の岩穴なり屋形濱摩舞の三つは人作にて湯壷をなすものなり中昔の歌に所謂眞白良(ましらら)の濱の走り湯といふもの此地の温泉の形をいふなり崎ノ湯は海湾の南の端にあり湯崎の名是れより起る元ノ湯の名は湯壷の源の義なり其谷を湯谷といふ湯谷に薬師堂ありて安するなり其所に森三太夫といふものあり奮は湯守にて慶長年中浅野氏より湯料定書を与へらる近年碑を建て詳に湯の事を記せりて因りて書記並びに続紀の文を左に載せ併せて碑文を載す。 (書紀続紀の文及び碑文を略す。) 注、紀伊続風土記は紀州藩が文化(1804〜1817)の初に編纂を初め天保10年(1839)年に成りたるものである。 注、鑿は読み「さく」、意味はノミ |
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