紀伊続風土記の記載      年代参照

瀬戸村 世 登  小名綱不知

田畑高 二百十二石七斗三升一合

家   敷 百八十七軒

人   数 千四十六人

此村荘中海湾の南の端にありて新荘村の小名鳥ノ巣の坤陸地一里半海路一里許にあり其地三面海に面して東の方一方富田荘と土地相接す山ありて隔絶し鳥巣と海を隔つといへども其地坤に突たるを以て此荘に属すといふ此地は牟婁の温泉の地にして古は別に大名なし其地形古海湾の北の端中間南北に切れて島ありて別に迫門(セト)をなせり島は即遠見番所及御殿跡の地なり海潮退きて迫門陸となり島と一となる人民初めて此地に村居をなしてより迫門の名此地の大名となり文字を瀬戸と改む古の迫門なりしといふ地今汚下にして其形猶残れり亦田地の字に島の前といふ名も残れり村中の土地皆岩石にて井を掘るべからず唯迫門の一條井を穿つべしといふ古の形知るべきなり正保年間(1644年〜1647年)温泉のある所海濱敷町の間に家屋充満するを以て別に一村となし鉛山村といふ村居のある所亦瀬戸村の領と犬牙相交れり今詳すべからず故に湯の事は鉛山村の條に載す瀬戸の小名三つあり本村の北にあるを恵津良といひ東にあるを綱不知立カ谷といふ皆家居あり

○三社権現社 境内森周八町

  攝社 地主明神社 拝殿 舞台

村の坤にあり其地別に海に突出て島の形をなせり一村の産土神にて熊野三所権現を祀るといふ境内に御腰掛石といふあり、斉明天皇此地行幸のとき御腰を掛たまふ石なりといふ又火雨塚といふ穴あり深さ知るべからず人作の穴の様なれども何の為に穿つといふ事知るものなし其穴より一町北の磯を御舟谷といふ其の穴此地に通づといひ伝ふ御舟谷は斉明天皇行幸の時の古蹟ならん。

○藤九郎盛長社 境内森山除地

  画馬堂 応

村に乾にあり神体衣冠の木像なり何の故に盛長を祀るか其事詳ならず土人の伝へに昔盛長うつろ舟に乗りて此所に来り住む其葬地村中にあり土人詞を此所に立て祀るといふ又或は伝へて髑髏宮といふ土人甚崇敬し舟に乗るもの 尤奉崇すとぞ(今按するに藤九郎は髑髏の転にして其髑髏の流れ寄りたるを埋葬せしに崇なとの事をいひ觸らし村民祠を立て其霊を祀りりしより髑髏の称呼転して藤九郎盛長を附会しゝならん寛文九年(1663)再興の棟札あり安達藤九郎景盛社とあり)

○衣比須社 村中あり

○本覚寺 浄土宗鎮西派京知恩院末

       本堂方五間 観音堂 鐘楼 僧坊

村中にあり

○薬師堂 鉛谷といふにあたり鉛山村入谷の所なり事は鉛山村の條に載す森三太夫といふもの支配す茶所あり

○瀬戸崎番所 村の西曲湾の北の端の山上にあり其山桔梗甚多し故に桔梗平といふ異国船斥候の番所なり寛永二十(1643)年より田邊の与力三十六人一月替に輪当して是を守る。

○白良濱 曲湾の内瀬戸村と鉛山村との間十町許の間の濱をいふ砂土潔白にして雪の如し

 夫本抄 百首歌に千鳥 寂念法師

雪のいろに同ししらゝの濱千ちどり声さへさゆる明ほのゝ空

 夫本抄 天禄三年五月資子内親王家歌合 よみ人しらず

心あてにしらゝの濱にひらふ石のいはほとならんよをしうそまて

 永久四年百首旅 仲實朝臣

いく夜寝ぬしら玉よするましらゝの濱松がねに松葉折しき

 入道攝政家御屏風つめるいさこを 兼盛

君が代の数ともとらん紀の国のしらゝの濱にしける石とは

 寛治三年八月四條宮扇合戦 よみ人しらず

かもめいるしらゝの濱の水底にその玉見ゆる秋の夜の月

 家集 鴨長明

たれにかはみきとかたらむ玉ひろふしらゝわたりの秋の夜の月

 出湯 仲實朝臣

ましらゝの濱の走湯浦さひて今はみゆきのかけもうつさず

 後鳥羽院熊野 御幸時瀧尻王子御会

 濱月似雪 右馬助源朝臣家長

冬きてもまた降そめぬ雪の色におなししらゝのよはの月影

 山家集 内に貝あはせんとてさせ給ひける人にかはりて 西行法師

浪よするしらゝの濱のからす貝ひらひやすくもおもほゆるかな

      月

はなれたる白良の濱の沖の石をくたかてあらふ月の白浪

  人々なとよひて和歌よむによはすしてうらみおこせたりけれは

    讃岐入道顯綱

きの国やしらゝの濱のしらせねはことわりなれやわかのうらむる

 柏玉集 百首に濱菊 後柏原院御製

よる波もしらゝの濱はかはらねと菊のみひとり色そうつろふ

 雪玉集 濱砂 逍遥院内大臣

眞砂には月もしらゝの濱風に霞の空も春にわすれて


注、永久四年は1116年 注、寛治三年は1089年