大和から牟婁への道

 飛鳥、奈良のころ、大和と白浜(その頃の牟婁、武漏、紀の温湯)との交通はどのコースによっただろうかというと、それは当時大和から海岸への出口であった紀ノ川の北岸に沿うて現在の和歌山附近に出て、布施屋あたりから南し主として海岸沿いによったであろうと考えられる。万葉の歌が妻の辻、大我野、黒牛、藤代、湯羅(由良)白崎、岩代、三名部(南部)、出立などの地名を詠んでいることが証拠である。それから紀ノ川北岸は当時の重要路であったことは日本霊異記などの記載からも察せられるし、紀ノ川に川舟の便もあったかと思われる。和歌山辺からは海上によったこともないかと思われる。少なくとも印南、岩代、南部、田辺からは船によったのは、徳川時代に普通であったから、その頃でも船を利用したことがあるのではなかろうか。

 有間皇子の変に蘇我赤兄が皇子の邸を囲んだのは11月5日の夜で、それから有間皇子が白浜へ連れて来られ、引き返して藤代坂で処刑を受けたのは11月12日である。その間僅かに7日間、大和から白浜まで6,7,8,9の4日間、調べが11月10日で11日に白浜を立って11月12日藤白とでもなるか、とにかくその位の日取りになろうかが、紀ノ川を西し、和歌山から南し、帰りもその道をとったとしなければならず、他のコースは考えられない。近頃大和から十津川、中辺路を来たなどという新説を出した人もあると聞くが。それだと片道で7,8日はかかるだろうし、当時中辺路があったかどうかは、とくと考える要もあろう。まず問題にはなりにくい。何の根拠も示すことなく、こんなことを言いふらし新説らしく説くものがあるというが、問題とするに足りぬ。

参考文献 白浜温泉史 白浜町 昭和36年4月5日発行