三輪崎と汽船

 (前文略)三輪崎町西崎又助翁は明治14年より明治18年まで数年間商業の傍ら上阪して(汽船寄港)運動に従事し尠かざる私財を抛ち極力奔走したる結果満4年にして漸く素懐を貫徹し得たり、即ち同地鴻益社と約を結び同社第一鴻益丸(壱百噸型)を当航路に充つることとなり、同年4月当時在阪中なりし新宮市森田喜一郎外3名と共に同船に乗じて来航し三輪崎鈴島附近に投錨したり、是れ熊野航路最初の航海にして又当港イノ一番の寄港となす、夫れより、第一鴻益丸(七十噸型) 太安丸(同型) 健壽丸(三百噸型)等相尋で来航し、隔日又は三日四日毎に尾阪間を往復したるが、大阪三輪崎間にては和歌山田辺串本の三港に寄港せしのみ、(後文略)

 参考文献 熊野新報 明治44年3月5日

        新宮市史、史料編 昭和61年6月1日発行

 紀州航路と三輪崎港

 当港に汽船の発着するに至りしは明治18年4月静岡県下遠州鴻益社所有船大安丸の寄港を嚆矢とす、後20年10月西牟婁郡串本町に神田汽船会社起り資本金5万円を以て神田丸・熊野丸・宇都宮丸の三艘を使用し大阪より紀勢沿岸を航し当港を経て熱海に達する航路を開始せしむが、翌21年10月愛知県下尾州共立汽船会社の共立丸亦航路を開始漸次舩数を増して当港に寄港して大阪熱海間を往復せり、此に於て神田汽船会社に於ても23年5月株式組織に改め資本金を20万円とし、紀洋丸・紀摂丸・勢尾丸を建造使用して盛んに営業するに至り、其の後海原群大浦の柏屋亦所有汽船を以て熊野巡航の業を開始したりしたが、3年余りにして其業を廃し、神田汽船会社も亦共立会社に合併(日本共立汽船株式会社)し、本航路は一時共立会社の独占に帰し、同32年12月大阪商 船会社の本航路を開始するに及び、共立社は遂に同社合併し同33年4月以降大阪商船の独占に帰したりしが、同45年の頃共同汽船会社起りて一時商船会社に対抗したりしたが久しからずして休止するに至れり、大阪商船会社は定期便の外44年12月急航三輪崎線を開始、毎日1回当港より大阪に至る急行をなせしか、新宮鉄道の起るに及び急行船は之を勝浦に止め定期船も上がり1回の寄港に留め、之さえ休航がちになりしが、大正7年3月15日以後は全く之を休止し、歴史ある熊野航路三輪崎港は遂に廃港となるに至れり。

 参考文献 三輪崎町誌 大正八・一一.、新宮図書館蔵

        新宮市史、史料編 昭和61年6月1日発行


 大阪商船の紀州航路      関連参考

 大阪商船株式会社は、明治17年(1884)から大阪〜和歌山間に定期航路を開いていたが、32年に至り田辺まで航路を延長し、大阪〜田辺線と称して、兵庫・和歌山・湯浅・比井・御坊に寄港した。これが紀州航路進出の足がかりであった。

 さらに、紀南地方荷主や大阪郵便局の要望により、同年12月27日三輪崎(現新宮市)まで航路を延航して、大阪〜三輪崎線と改称した。

 後文略、串本町誌参照。