安政地震と温泉・岩城氏墓陰の文 注、嘉永七年は安政元(1854)年 

田所顕周ノ嘉永七年寅十一月天変諸事記ノ抄

一、瀬戸村支郷綱不知、立ヶ谷人家不流残申候

一、湯崎温泉マブの湯は是迄之通に候得共其外不残冷水に成、翌卯春よりマブの湯も段々悪敷相成、四月比には同様冷水成


干鰯屋善助手記ノ抄

一、鉛山温泉其後次第に涌減じ終には四ヶ所涌止り申候

雑賀云。前文略、この時湯崎では伊勢参宮して温泉の復活を祈願し、後湧出を見たので今でも年々字の代表が伊勢参宮する。

岩城氏墓陰の文

白浜町綱不知の岩城惣八夫妻の墓石の裏と側面とに記されている。

小さいながら一寸珍しいものである。

往昔宝永亥四十月四日大地震並ニ津浪起ル。

今ヲ去ル事百四十年ナリ。

嘉永七寅十一月四日大地震、四五日海中雷ノ如ク鳴ル。俗ニ海鉄砲ト云フ。

夕方七ツ時津浪ス、此ノ夜廿四五度満干、浪ノ高サニ丈余、村中困難一ト方ナラズ家屋田畑流失ス。

又三十五年目、明治廿ニ年七月二十三日諸々山々崩レ、出水シ、津浪起リ、川々常水ヨリニ丈余、其ノ惨状、田畑家屋流出シ人畜溺死スルコト数ヲ知ラズ。意外ノ大害ナリ。

後世注意ノタメホボ予メ記シ置クモノナリ。

        (原文ハ漢文交リノ国文)

明治廿六年十月

岩城惣八 白

参考