元和9(1623)年12月29日、綱不知港の鯨漁

元和九年

一、十二月廿九日網しらす湊に鯨移寄る、取所大小三百八本、近国商人来る、

二木漬       七木御煎         二本町中へ拝領 六木江川捕へ

一本網屋町へ   二本江川恵美須へ  二本夙浦へ

二本鳥の巣へ   一本跡の浦へ     二本跡之浦七兵衛へ

二木網しらずへ 一木瀬戸地下へ   一本鉛山へ 

一木芳養浦へ   三木足軽衆へ

残り二百七十二本代 銀六十四貫二百二匁

子正月廿三日売仕舞 (田辺大帳)

元和九年

一、十二月廿九日網不知湊へ鯨大分寄 取所大小三百八本、近脚商人来、内分左之通

二本 に被成候  六木 江川へ被下候    二本 敷 浦

一本 同浦七兵衛 一本 鉛 山         七本 御煎被成候

二本 江川恵美須 二本 鳥の巣        二本 綱不知

一本 芳養浦    二本 町中へ被下候   一本 網屋町

一本 跡之浦    一本 瀬戸地下      三木 足軽衆

残二百七十二本 一本二付二百三十五匁□

代銀六十四貫二百二匁 (萬代記)

雑賀云。先づ大帳記載によれば蔵、煮肉および各分配は合して三十五木で三百八本からこれを引き去れば残り二百七十三本とならねばならぬ筈、又萬代記記載によれば三十四本で残り二百七十四本となるべきである。

然るに双方とも残りを二百七十二本とし一本若くは二本を逸してゐるのが目につくが、これは記載以外に処分されたものであらう。

さてこの鯨は誰が捕ったのかは以上の記載では明かでないが、捕獲した鯨を「下候」等の記載から見て公衆の有に帰している点などから別項の南龍公鯨船等の関係であるまいか、何にしても記述が簡略で詳しく知るを得ない。

尚ほ鯨は午頭鯨であらうと察する。尚ほ南紀徳川史に「元和九年十二月廿九日口熊野周参見組瀬浦にて鯨三百余りを獲内三頭を田辺横須賀の者共へ賜ふ」と田辺与力系譜にありとて周参見に鯨漁と題せるも、これは周参見組なる瀬戸浦(綱不知は瀬戸の支郷)の「戸」の字を脱したものと思はる。

而して三木を足軽衆へとあるもの或は横須賀与力へたりしかも知るべからす、しかし幕末同輿力争論の時提出した由来書にはこの事を記して居ない