白浜町誌下巻一本編を参照した。 |
第六節 平草原明光バス専用道路問題 戦後最大の町政問題は明光バス専用道路問題であった。昭和十年(一九三五)八月十八日、平草原に明光バスが観光自動車道を新設するについて、時の村長大江四郎書と明光パス代表取締役湯川昇との間に取り交わした三〇年間の貸借契約書によって、明光バスが専用自動車道を設置し遊覧バスを運行していたが、町ほ昭和三十一年(一九五六)八月十七日の町議会全員協議会に、契約を解除して町道として一般車両に開放したいと諮ったことからこの問題は発生した。 町側の解約しょうとする理由は、全国からの観光客が急激に増加し、団体客を運んで来る他社のバスが急増、このことによって専用道路に入れないこれらのバスが三段壁から引き返し、狭い県道を対向するため危険性が高いというものであった。平草原の絶景が明光バス以外では見ることができない。 町が専用道路の返還を要求するのには一つの伏線があった。昭和二十六年(一九五一)の県議会で、大阪のバスに明光バスが一〇〇〇円の通行料を取ったことが問題となっている。県は通行料の徴収は違法と言えないと答弁しているが、白浜の急激な発展とともに、交通機関の独占が、新しく観光地白浜の主役となった旋館経営者との間に種々な不調和をきたしたのである。明光バス側にももちろん言い分があった。 専用道路設置にからむ当時のいきさつ、専用道路は法によって認められた明光専用の道路であって契約期間中に一方的に返還を求められるものでないこと。三段壁に至る県道がバス対向によって危険であれば道路拡幅を行って解決すべきものであることなどである。 町会議員においても、必ずしも全員一致で返還の申し出に賛成するという空気ではなかった。議論百出の中にも、町ほ着々と返還への道程を進み始めた。 昭和三十一年十月十四日、町長は明光バス社長に対し、専用道路返還の内容証明郵便を発送した。 契約書の第九粂をその理由としたのである。第九粂には次のように書かれていた。 「第九条、甲(町) ハ村道トシテ其ノ必要生シタル場合、第七条ノ工費未償却額全部ヲ乙二補償スルトキハ乙ハ第二条ノ期間ノ利益ヲ主張セス直チニ道路全線ヲ甲二引渡シ同時二当該道路上二於ケル本道路専用ニヨル自動車営業ヲ尭止スルモノトス。」 明光バスは即日町の申し出を拒否した。町は十月十六日に専用道路を町に返還し、全車両の通行を認めるよう田辺裁判所に仮処分申請を行った。 この仮処分申請が町長の専決処分権を越えているとして三議員から不服申し出があり、北尾議長が辞表を提出する一幕もあって政争はいっきょに吹き出した。しかし十月二十六日の町議会で審議を行った結果、明光の態度からみてやむなしと町長の専決処分は一三対四で承認された。 田辺裁判所は法的決断を避けて調停による解決を考え、四人の調停委員(郡須田辺市長、蜂尾旅館組合長、山下美里、杉若儀一)がそれに当たったが、両者の意見ほかみあわなかった。 町側は、速やかに専用道路を有料道路としてでもよいから一般公道としてすべての車に開放せよと主張し、明光側は、有料道路とするには幅員、カーブ等の規格に合わない。この改善には多額の費用がいる。町の主張する三段望までの狭い県道は明光で改良し、危険はないとそれぞれ主張して譲らなかった。 一方、町では、急激に観光客の増加する状況から、平草原と白良丘、そこから白良浜の上を御船谷へ、更に臨海の番所山に至る全長二三六〇メートルのロープウェイを計画、総工費二億八〇〇〇万円で年間二〇万人の利用客を予定する大計画を発表、昭和三十二年二月十八日の議会全員協議会にかけて反対一名で可決した。 一方明光バスもロープウェイを申請中で、町と競願の形となった。そのうえ明光バスが宮城道雄詩碑の側に建設中の展望塔は町有地ではないかと議会で問題になった。明光側は、この土地は明光バスが来迎寺から借用している土地で、地代も支払っていると反論。ついに町と明光バスは、専用道路問題、ロープウェイ競願、展望塔敷地と三つの問題が入り組んで争うこととなった。 町民も白浜町専用道路開放期成同盟(会長狩集助一、副会長平見栄七、事務局長浜崎与一)が一月に結成され、一日も早い専用道路開放を願って署名を集め、この署名を裁判所へ提出した。 明光バスは平草原専用道路の舗装を昭和三十一年九月から実施していたが三十二年四月十七日に、延長三・七キロメートル、幅員五メートルの全線舗装が完成した。この舗装は、前官崎町長のころに町から申し出があったもので実施したにすぎないと明光側は説明している。 そこで町は三十二年四月二十七日午前九時から町議会全員協議会を開いて平草原道路を午後二時から町道として供用開始することを決議した。この決議に対し、明光、バス側は「道路線認定はできても、使用権なしに一方的に供用開始ほできない」として、三段側入口にピケを張って実力で阻止する態勢をとった。 四月二十八日町は供用開始の通告に基づいて午前中に道路標識、遮断機等の撤去を要求、応じないときは同日午後一時を期して町当局の手で撤去することを通告した。 明光バス側は三段側専用道路入口に遮断機とともに放水車を置き、人垣でピケを張って阻止する姿勢を示し、町はトラックに作業員を乗せて撤去に向かった。 午後二時四十五分町ほ撤去を開始しょうとしたが明光バス側は放水してこれに対抗し、五分間もみあったが、町側はこれ以上の紛争を避けて引き揚げた。 ここにおいて、町はこのことにより妨害禁止の訴えを起こし、明光バスは私権の侵害として行政訴訟をする構えをとった。このような緊迫した情勢の中で、五月三日開かれた町議会全員協議会は供用開始の是非をめぐって紛きゅう、その結正・副議長、助役が五月六日上京し、警察庁で法的見解を確かめ、その後再開することとなった。 昭和三十二年七月十五日、明光バスでは正式に和歌山地方裁判所に「専用自動車道占有妨害排除」の行政訴訟を起こし、二十日に明光側の言い分を認めた。町側は直ちにこの決定を不服として異議を申し立て、数か月にわたる審議の結果、十二月二十三日に和歌山地方裁判所は「町側が三千万円の保証金を供託すれば仮処分は取消す」との言い渡しがあった。町側も三〇〇〇万円の供託には問題がありとして控訴し、明光√ハスも不服として控訴した。 その結果、最高裁において和解を勧告された。その骨子は、町、明光バス株式会社の共同資本による会社を設立して有料道路とするものであった。 一方ロープウェイは、平草原、白良丘間が許可され、実施計画に入ったが、通過他の下に明光バスが最近購入した会社の土地があり、そこを避けると聖域ともいうべき山神社の上を通過することになり、悩みは尽きなかったが、やむなく山神社の上を通過することとなった。 かくてロープウェイは、昭和三十三年三月に工事社の請負見積もりが行われ、その結果、町が推薦する安全索道が七八〇〇万円、もう一社の富士輸送が七三〇〇万円と五〇〇万円の差ができ、三月二十二日の町議会でいずれにするかで議論が出たが、結局町の安全性重視が認められて、七六〇〇万円で安全索道が請け負うことになった。 このロープウェイは昭和三十三年十二月一日、総工費一億一〇〇〇万円で完成し、盛大な竣功祝賀式とともに運転を開始した。延長七七〇メートル、片道五〇円、往復九〇円の料金で、ゴンドラから見る白長浜や田辺湾は紀伊の松島の名にふさわしく美しかった。 |
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