瀬戸鉛山の温泉争い  嶋清治

参照文献 1980 白浜町誌紀要bR 町のあゆみ 白浜町誌編纂委員会

   注、表題は、瀬戸部誕生から抜粋した。

 明治十年から、明治二十年迄、争った温泉訴訟は、旧瀬戸村の主張と旧鉛山村の主張が、はっきりと別れています。

 旧瀬戸村の主張は

 鉛山は往古(昔)より瀬戸村の一部であった。温泉も江戸時代初期に、瀬戸村の住人森三太夫が鉛山に移り住んで管理してきた。さらに旧瀬戸村と鉛山村の境もはっきりしたものはない。これらはすべて鉛山が瀬戸村の一部であったためで、江戸の中頃に鉛山村ができたが、それは瀬戸村の支村としてできたもので、瀬戸村と鉛山村はもともと一つのものである。大要このような主張になっています。

 一方鉛山村の主張は、

 瀬戸と鉛山はもともと独立した村である。生計のたて方もまったく異なり、また温泉の管理も鉛山村がすべてやってきたもので、瀬戸村が共有を主張する理由はない。明治六年に合併したのも、不服ながら官命にしたがった。大要はこのような主張です。

 それぞれの主張から見ますと、瀬戸鉛山は一つであると主張する旧瀬戸村側は、財産である土地を村中持(村所有)としていることはうなずける。

 また鉛山村が鉛山部を作り、温泉の権利や、鉛山村の所有地を鉛山部の名義であると主張するのもうなずけます。

 温泉訴訟は、双方共その訴訟費用に苦しんだ末、明治二十二年十二月十一日に、小関維隆氏等の仲裁によって、従来通り、温泉の所有は村所有、経営は鉛山部と言うことで訴訟を取り下げ終結しましたが、この争いは旧瀬戸村と旧鉛山村の間に長くしこりを残しました。

 鉛山部の成り立ちは、記録がありませんので確かではありません。長老達の話では、明治六年合併当時よりつくられていたと思われ、総会は年一回一月十三日のお日待ちの日に、部民全戸主が集まって開いていました。

 鉛山部はのちに湯崎部となり、昭和七年に温泉経営よって出来た累積赤字約七万円の肩替りを村に願い出、温泉経営権を村に渡して、自然解散するまで続いていました。

 鉛山部の所有土地は、確かな資料がないところから、多くはなかったようです。