明治初年政府が地券を発行するとや瀬戸側は湯崎温泉を瀬戸と湯崎の共有であるとし、湯崎側は共有に非ずして湯崎の所有であるとして遂に法廷に争い、懸訴数年、始審再審又複審、感情の激する所、瀬戸側258名と湯崎75名は互に敵仇視し、起訴費用の調達、負擔の困難におえぎながらも争いつづけ、遂には法廷の勝敗決すれば流血の惨を見るかも知れぬほどの状態となったのを、仲裁により解決したもので、これはその覚書である。仲裁人小関氏は当時田辺本町外18ケ町村戸長で後の田辺町長、佐山氏は当時の有力者、武田氏は当時湯崎瀬戸と田辺間の船営業に関係があったものの如くである。

 当時の訴訟記録は両字に尚ほ存するも詳しきを避く。

 参照、温泉叢書歴史文献編 雑賀貞次郎著