明治十年代に起った温泉所有権を巡る争論について 楠本慎平 参照文献 1980 白浜町誌紀要bR 町のあゆみ 白浜町誌編纂委員会 |
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まえがき はじめに、明治十年代の瀬戸鉛山村に起った瀬戸側と湯崎側との、湯崎温泉の所有権を巡る争論については、すでに雑賀貞次郎氏が「白浜湯崎の諸文献」の中で、「温泉所属紛議解決書」と題して、瀬戸側と湯崎側との間に、明治二十年(1887)十二月取りかわしたつぎのような約定証書を載せ、かつ解説を付されているので再録させていただくことにする。 約定証書 一、鉱泉一件につき、先年来争論これ有りたる処、今般村中相談の上、 一切これを取消すものとす。 一、鉱泉の取扱ひ方は諸般従前の通り致すべきこと。 一、鉱泉の敷地権および訟訴に関する一切の書類は、仲裁人の内小関 維隆殿に預け置くものとす。 明治二十年十二月十一日 瀬戸鉛山村人民総代瀬戸部落 大江孫八 ・ 金谷幸次郎 芝田与七 ・ 南藤四郎 三瀬勝蔵 ・ 大門藤次郎 田井善三郎 ・ 津多市蔵 岩城惣八 ・ 田井善九郎 真鍋平三郎 同鉛山部落 宮本善四郎 ・ 鈴木清左衛門 藤原辰之助 ・ 三木善右衛門 湯川安吉 仲裁人 田辺江川町 武田松平 田辺下屋敷町 小関維隆 湊村 佐山正吉
編者云。
以上がその全文である。一見まことに簡にして要を得た名文であるので、これ以上補足説明の必要はなさそうに思われようが。末尾にちゃんと「当時の訴訟記録は両字に尚ほ存するも詳しきを避く。」とことわっておられるとおり、あまりにも大ざっぱすぎるきらいがあり、折角の名著「白浜温泉史」にも一言半句も出ていないので、もうちっとほりさげて見たいと思う。 T もう一つ前史として瀬戸鉛山村の沿革について簡単に述べることにする。何分この争論は根が深い問題であるだけに、沿革を述べないと理解が頗る困難であるからである。 そもそもこの瀬戸鉛山村というのは、和歌山県庁の指令により、明治六年(1873)に瀬戸村と鉛山村とが合併して生まれたもので、したがって明治九年(1876)説(毛利清雅著「湯崎温泉案内」・宇井可道の「牟婁郷名勝誌)や、明治二十二年(1889)二月二十二日説(「白浜温泉史」)は誤りである。 さらにさかのぼれば、もともと鉛山(湯崎ともいう)は、瀬戸村の一部落であったのであるが、戦国時代末期鉛鉱が発見されたため、鉱夫の来住するものが、にわかに多くなり、人口が増加し、ついに江戸時代初期の正保年間(1644〜1648)分村独立して鉛山村と称するようになり、以来およそ二百三十年の長きにわたって、別々に村役人を置き、明治六年に至ったものである。なお説明の便宜上、旧瀬戸村を瀬戸側、旧鉛山村を湯崎側と称することにする。 (備考) 鉛山村の成立については、控訴審の際の瀬戸側の主張や、紀伊続風土記の説などを参考にしたものであり、正直なところ瀬戸・鉛山両村の成立過程はよくわからない。ただし正保二年(1654)十二月付三通の文書写によれば、当時「瀬戸地下庄屋」と「瀬戸鉛山庄屋」とがあったことが知られるから少なくともこの時点では、すでに瀬戸村(地下)と鉛山村とはまぎれもなく別村であったことが確認される。 ちなみに、始審の際には、湯崎側は、湯崎温泉碑の碑文の一部を引用、日本書紀等に見える天皇行幸のことにふれ、瀬戸村こそ鉛山村の支村であり、もともと瀬戸というのは、鉛山(湯崎)の地を含む総称であって、瀬戸村の本来の名称ではないといい、また控訴審においては、湯崎側は、少なくとも正保二年かそれ以前において、鉛山村は瀬戸村(地下)より分村したのではなく、瀬戸村を分割し、一方を「地下」と称し、他方を「鉛山」と称して生まれたものであり、それがいつのころよりか「地下」は瀬戸という村名を占用するに至ったものだとも主張している。 U ことのおこりは、改正地券の発行に際し、明治十四年(1881)二月、温泉に関する地券がはじめて交付されたが、温泉の所有権が「瀬戸鉛山村中」すなわち瀬戸と湯崎の共有となっているのに驚いた湯崎側(七十五名)が、共有ではなく湯崎の専有であるとして、瀬戸側(二百五十八名)を相手どって、同十五年(1882)十一月六日、地券書換えの訴訟を、和歌山始審裁判所へ提起したことにある。 かくて始審裁判所において審理をつくした結果、同十六年(1883)五月十六日に至り、「被告は、もともと原告と被告村とは同一村である。しかるにのち分村独立したのではなく、旧鉛山は被告村(本村)の支村である。この支村の起こりについて説明すれば、往古この地に鉛鉱山があり、領主がこれを採掘したため、鉱夫が来住し、商人もとどまって宿亭を開き、鉱業の盛んになるにつれて移住する者が多くなり、ほとんど一村のような景況をなすに至ったもので、鉛山の地名も鉛鉱山に由来したものであり、旧鉛山が被告村の支村であることは疑い得ない。 ところで本村と支村とは数町相隔てているので、それぞれ独立した景況をなし、また本支村人民もその生業を異にしているので村吏も各自にこれを置いたのである。それ故古今その村堺はなく、海岸・山地の利害も彼我同一にこれを享受しており、原告村の貢租は被告村を経て上納し、また原告村にある耕地はことごとく被告村の管轄に属し、さらに温泉湯守も被告村人民がこれにあたり温泉を管理してきた。なおかって他村と境界の争論のあった時、原被告村吏が共同してこれに対抗した。これらはみなその利害を共にしてきた証拠である。よって温泉の所有権は当然原被告の共有である、と主張しているが、被告には右温泉の貢租を上納し、湯壷を修理し温泉に関する利益を収取してきたという実績はない。これに反し、原告はもと被告村の支村ではなくして独立村であり(これは和歌山県庁の回答書に徴しても明白である)、また原告はこれまで湯壷を修理したり、湯床税(温泉地の租税)を上納し、かつ温泉に関する利益を収取してきた。よって温泉の所有権は原被告の共有ではなく原告の独有であることは明白である。それ故地券は速やかに原告名に書換えよ。」との判決があり、すなわち原告湯崎側の勝訴となった。 V これを不服とする瀬戸側は、同年七月四日大阪控訴裁判所へ控訴、同裁判所において慎重審議の結果、同十七年(1884)二月二十六日に至り、「本訴原被告はもと両村の区別あって。原告村は瀬戸村と称し、被告村は瀬戸鉛山村(筆者注、瀬戸の鉛山村の意か)と称し、村吏の如きも各村に在って支配を異にせしもので、本訴温泉地の如きは旧鉛山村すなわち被告村に所属せしものにて、被告において該温泉湯壷を修理し、および湯床税を上納し、温泉に関する利益を収取し来りしこと等、被告第壱号以下の諸証に徴し明瞭にして、原告においては右等の事蹟更にこれ無きものなり。果たして然らば該温泉は原被告の共有に非ずして被告の独り所有すべきものと認定する。」として、一番判決を支持する旨の判決が下された。すなわちまたもや被告湯崎側の勝訴に終わったのである。 しかし瀬戸側はこれを不服とし、同年五月十四日大審院に上告したため、同年二十二日より審理が行われた結果、ついに同十八年(1885)四月二十七日大審院の判決があり、多分上告は棄却され、裁判は確定したものと見られる。ところで遺憾ながらこの裁判確定後の資料がないのでどのような過程を経て仲裁による和解に至ったのか、とんと見当がつかない。 したがって今後の研究課題として残しておくことにしよう。 あとがき 以上が明治十年代に起った湯崎温泉の所有権をめぐる瀬戸側と湯崎側の数年間にわたる争論の概要である。資料が完璧にそろっていないので、当初のねらいが果たしてどの程度まで達成せられたか、いささか心もとない次第であるが、大方諸賢のご批判を仰げれば幸甚である。 参考文献 省略しましたので、上記の本をご覧ください。白浜児童図書館にあります。 |
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