紀南郷導記の成立は、元禄2(1689)年の成立が有力です。 元禄の末、元禄(1688〜1703) 紀南郷導記の記載の抜粋 紀南郷導記の成立は、下記、注1、注2を参照した。 注1、元禄2年は、昭和42年11月3日発行 紀南文化財研究会 校訂紀南郷導記 注2、元禄の末は、昭和8年10月20日発行温泉叢書歴史編 (前文略)。 此浦にて春秋鰡を捕り塩に漬け商売す。故にカラスミ多し、 (後文略) 文化6(1809)年4月 この年、瀬戸浦ボラ網一帖新調、都合二帖となる。(「御用留」安政五年) |
天保11(1840)年8月 瀬戸村からからすみ冥加献上願い出す。(「南家文書」) |
名物からすみ由来 乍恐奉願口上 瀬戸浦に而製薪からすみ之儀先年南龍院様度々瀬戸に被爲遊御成候御節々私先祖御思召に相叶候哉奉蒙厚御仁慈之御意御口役か子役等をも御免許被爲成下其上鯔網○船拵代銀共奉御拜借御影にて千今永続仕御座候其後人家相増只今に而は二組に栄御座候尤 網船代拜借銀返納仕御金蔵御受取手形等も御座候右に付当秋土用中からすみ出来可仕候間乍恐爲冥加永々御献上仕度奉願上候乍恐一位様えは先達てより年々御献上仕候儀に御座候何卒右御聞済被爲成下候はヾ仕合に奉存候依之以書付奉願上候己上
天保十一年子九月 ロ熊野瀬戸浦地士庄屋 南福左衛門
小浦惣内様 廣井藤右衛門標 雑賀云 。これは紀州藩十一代斉順公にカラスミを献上せんとする願書の控で瀬戸区に存する写よりこれを得たものである。 一位様は十代治宝公のこと、御口役は俗に二歩ロという漁獲物の二歩を日々現物から徴収する役、か子役は水主(かこ)のことで藩の用を勤むる船の役 、年々少許の手当な受け用あるときは微発に應ずるものである。 瀬戸浦は秋期に鯔魚群集し来るも住民資力なく網を作り得ず鯔を目の前にして手を空しくしていた、南籠公これを聞いて憐れみ資を貸して網を造らしめたので、鯔を漁獲しカラスミを名物として売出し、爲めに同浦繁栄の基礎をなしたと口碑に伝え 、今も本覚寺に南籠公の位牌を祀り毎年正、五、九月には金浦一日休業して公を祀り遺徳を奉謝している。 この文はこれに関して現存する最も古き文献である。 参考文献 白浜、湯崎温泉叢書・歴史文献編 雑賀貞次郎著 昭和8年10月20日発行 注、一部旧字から当用漢字にした。 安政5(1858)年8月 瀬戸浦と朝来帰見草両浦と鰡網紛争深化(「御用留」) 大正6(1917)年10月27日 南龍院さんから慥らえてもらって旧網に近年改良を加えた網と新調の二統の鰡網。高見(三段壁)の見張人西杉松老人から魚群発見の急報でそれぞれ一統三隻の船に五人宛乗って櫓を漕ぎ瀬戸の浜勇ましく出て行く。 大正7(1918)年10月29日 瀬戸でとれる鯔(ぼら)の卵を塩漬けにして干した鯔子(カラスミ)が珍重されるので水産試験場に製造法研究を依頼した。参考文献 村の日記 大正8年10月21日 瀬戸の鯛網白良で鰡の大漁。十数隻の漁船がカイを立てて瀬戸の浜へ押し込んで来た。近年にないことで腹子が八百もあり、このカラスミだけで二千円、それにオンスや腹子を抜いたカラでも値がよいから一ツ角のモンである。 大正10年10月24日 祭り後鰡網がおろされてポラボラと大きな声で村中を幣をふってどなっているが、まだまだ大した漁はない。 参考文献 村の日記 |
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