塔島について

 1733(享保18)年4月19日の鉛山記行 祇園南海

 (前文略)、北一里又得一山、上有斥候楼、下双岩並跱、岩原一址、中間嵌空浴断回、西北窓嶼兀、三洞玲瓏、宛如窓牅、一名唐嶼、東岸石門桓立、上有先朝別館、今已廃矣、而民尚相戒不敢繋舟篶、(後文略)。

 <<大体の意味>>

 (前文略)、西北の総べての島は禿山で、三つの洞が美しい。まるで家の窓のようだ。一名、唐嶼(塔島)という。東岸の石門は猛々しくそそり立っている。上に先朝別館がある。今は己に廃れている。しかし、民は尚ほ互いに注意しあって敢へて舟をつながない(後文略)。(注、先朝別館 は臨海の所あった徳川家の別館。)

 参考一 遊灘渡(七言律詩) 祇 南海 

  参考二 祇園南海の「瀬戸に遊ぶ」詩 その詩句の校定と訳注

祇園南海の「瀬戸に遊ぶ」詩 その詩句の校定と訳注

 白浜町 久保 卓哉

参考二の(訳)
(前文略)
臨海の門のような巨石にあいた一つの穴は 動くにつれて切れてはまた続いているように見えるが
門のような巨石に穴が一つありその穴はとぎれてまた続いているように見え
塔島にある三つの窓は固くかたまって動かない

(後文略)


以下、私。
ここでは、穴についてのみ記載します。
臨海のーー(中文略)ーー見えるが
門のような巨岩ーー(中文略)ーー続いているように見え
 この穴は、二つの穴(番所の鼻の穴と円月島の穴)のことと思っています。
 瀬戸の倉の鼻の山頂から殿様井戸(瀬戸古道)まで歩くと、
二つの穴が続いたり、切れたり、又、番所の鼻の穴が見えなくなって円月島と番所の鼻とが陸続きのように見えますが、円月島の穴は見えます。
 注一、この漢詩を初めて読んだときは、番所の鼻の穴を北浦の洞門と思っていた。
塔島にーー(中文略)ーー動かない
 三個の穴があったと思っています。
 では、北浦の洞門はどうなるのかとの問題が出てきます。
 この北浦の洞門については、色々と考えることができます。
 見る場所によっては、この洞門は見えなくて、塔島は全体が見えます。
 もう一つ、難しい写真があり思案しています。
 しかし、写真の話は別にして、
 この瀬戸に遊んだときは、訪れた場所によって、北浦の洞門は見えなかったと思われます。
但し、菊地 西皐「三山紀略」寛政六(1794)年 塔島の記述を考えなければなりません。
 北浦の洞門と塔島は、ボチボチと勉強することとします。
 「瀬戸に遊ぶ」の漢詩は、瀬戸の倉の鼻山頂から瀬戸の北浦までの間の風景を書かれたと思っています。

  1782年瀬戸古事

   <前文略>

 1、とう島 但しうしの鼻ともいふ。唐島の北の方なり。二ツ岩に穴有り。但し此の頃

   右の穴一ツかけたり。今は穴一ツなり。

  <後文略>

   参考

  瀬戸古事については、一応天明二年(1782)前後に成立したものと推測される。

  しかし問題点がないわけではない。昭和51年5月 解読解説者 楠本慎平

 

 1794(寛政6)年 三山紀略之一節 菊地 西皐

 (前文略)、巨石爲門、高五丈許、横稱之、其左連丘、右礎横没海、既入門、数歩叉得一門 、大如前、出則波上奇巌、名庸嶼如垣如塀、有三牕、布帆過其外者宛然窓櫺中物、其巨互可知也、(後文略)。

 <<大体の意味>>

 <前文略)、巨石が門のように立っている。高さ五丈(15.15メール)ばかり、横と云う。

 その左は丘に連なり、右の足元は海に没している。すでに門に入ったが、数歩にして又一門を見た。大きさは前のと同じ位だ。そこを出ると、海上に奇巌があり、唐嶋と云う。
 垣のようにも見え、屏風のようにも見え、三つの窓がある。帆船が島の外を通ると、島の窓の中に美しく映る、その大きさもそれで知れる。(後文略)。

 

  1834(天保5)年、「温泉日記」 国香軒蘭秀(阿波国出身の俳人)著。

 瀬戸の浦より高嶋、遠見台を過ぐ、絵のごとくなる嶋中眼鑑のごとく、田辺、綱不知へ入海の口にあり「帰る帆のくれの目当やめがね岩」

  1848(嘉永元)年の「西国三十三所名所図会」暁鐘成著には、

 「眼鑑岩瀬戸の沖にあり、岩の正中に穴有り、昔は両穴ありしかども、今は崩れてなしといふ」

 

  1903(明治36)年に作られた漁業権地図に塔島の名が出てくるのが最初。

  現在、塔島は番所山の方から右側に向って「大山」、「大仏」、「ふで島」と呼んでいます。

 

 参考

  この二文(鉛山記行と三山紀略)から見るとこのころ塔島、岩が垣か屏のようになっていて、穴が三つあると書かれている。

  三つの穴は、とう島にあいたのが二つと、一つは臨海浦西北の岩穴

がそれであろうと推測される。(参考文献 町誌資料下巻288頁) Photo/2004-02-01  

 二つなのか、三つなのか、読んだ皆さんの判断ですね。

 瀬戸古事、塔島の記載は、1834年から1848年と思われる。