新商売温泉堀、白濱温泉の 生れ出るまで 一攫千金を夢みて地球を掘る 紀勢鉄道の南下でまたも流行、喜びの裏にこの苦心! |
打続いた温泉争議 五百尺余の手堀に六千五百円 温泉糞詰まりの悩み (昭和6年7月、大阪毎日新聞和歌山版) |
地殻の表皮に丹念に穴を穿つて生きた地球の血管から熱い血潮を噴き出させようとする近代文化の生んだ新しい県下の投機事業「温泉堀り」は紀勢鉄道の南下を前にしていよいよ昔の鑛山師にとつて代つて一攫千金的の思惑を各所に生むに至つた、本県の日高郡から東牟婁郡まで紀南三郡の温泉地帯に過去十数年間に第二の別府温泉を夢見る大地穿坑の計画の樹てられたことは実に枚挙に遑がない。温泉脈の中心圏の西牟婁郡内だけでも百二、三十ヶ所の多数にのぼり将来ますます激増の傾向にあるとこるから、こゝに現出したのがこれから紹介する新商売温泉堀りの一団である。 そもそもこの温泉堀奇態な形の小屋がけしをし「ウントコサのホイホイ」の掛声もろともドスンドスンとのみ打込む単調な響きを立て始めたのは今から十四年前の大正八年のことで当時東京鑿井会社が新設の白濱土地会社の招聘(しょうへい)によつて工藤技師一行が白濱に乗り込んで来て處女地白良濱の純白の地肌に近代科学の冷い手を触れたのがこの新商売の起源であり、かつまた白濱湯崎繁盛の基となり鮎川温泉周参見温泉その他の新温泉を作り出す動機とな った。ところでこの温泉堀りは掘抜井戸を掘るやうに、こと簡単には行かぬ、最初工藤技師一行によつて下された温泉ボーリングは一号、二号ともたつた四十七尺のところで粘板岩のとてもねばいやつに出くはし割り竹の先に取りつけてある鉄ののみを持ちも下げも出来ぬやうに吸 いつてしまい、サァ大変だと狼狽して騒ぎ立てるうち継ぎ合した竹がプツリと切断してしまつたので掛鎌で釣り上げ様としたが貧乏ゆるぎもしない、五分のワイヤー・ロープでジャッキ二台を据付けて引上げようとしても、なかなか離れない、そのうち八月の時化模様とな って来たので取りあえず海岸に土俵を積むやら排水作業をするやら肝心のボーリングはそっち除けの騒ぎもその甲斐なく大時化の夜怒涛のため折角の穴は無断にも銀砂に埋没の悲運に遭遇してどこが口やら所在不明の受難、とうとうのみは永久に地殻の一部に吸い込まれてしま った。 この醜態に大いに憤慨したのは小竹岩楠氏で 技術者の方でもきまりが悪く散々の態で東京え引揚げた。白濱土地が湯崎温泉の向うを張って一大温泉郷にしようと血眼になって温泉を探している際であったからこれに屈せずほどなく銚子から技術者を新しくやって来て同じく白良濱海岸に第三号、第四号を掘り出した、ところがこれも五〇七尺のところまで掘り下げたが軟弱な地質のところが中途で落盤して失敗し、第四号も五三〇尺のところで多少ブルブルとガスの気が見えたが上まで噴き出すまでには行かず、これまた重ね重ねの失敗で引揚げ三たび千葉から技術者を迎えたが、このころには感のよい瀬戸の人夫たちはすっかり温泉堀のコツを覚え込み古田百合蔵さんほか七八人はもう一人前の温泉堀になりすまし、ともども工事に当ったところ第五号温泉が三七〇尺の地下から摂氏三〇度の冷泉が一時間十二石の湧出力をもってボコボコと噴き出したときは白濱の会社関係ばかりでなく瀬戸の区民挙げて大騒ぎを演じ、そのときの喜びは現在五百石の走り湯、垣谷の大温泉を得たより大きかった。次いで六号瑞穂の湯が五十石の湧出を見て続々成功して、今日の温泉郷をなす迄には気楽な温泉客の想像も及ばなぬ苦心が重ねられたのである。
打続いた温泉争議 遂に面倒な取締りが始まる、学者も引張る
湯崎白濱に温泉堀りを初めてから三、四年して鮎川温泉が生まれた、当時田邊中学の戸田教諭が鑑定して富田川畔に掘ったのがうまく当って冷泉の大湧出を見たので東京から三浦不非氏らが乗込んで来て試掘者中瀬三兒氏らと会社組織で遠大な計画を立てゝ大正十四年花々しい開業祝賀会を開いたこともあったが財界不況その他の影響で経営思わしからず今では中瀬三兒氏これを経営し昨年その下流に佐々木賢一郎氏が新温泉を作り一本ボーリングをしたがさらに附近に試掘工事を初め海の温泉に対抗して一大飛躍をしようとしている、このほか二、三年前椿温泉、椿楼が二百石の大冷泉を掘り当てゝから朝来帰区との間に生じた久しい紛糾は人の知るところで朝来帰でも他にボーリングしてこれに対抗して次第に発展に向かいつゝある。 どんなことにも進化の過程には混乱時代はつきものでこの温泉堀りの世界にも幾多の騒動がもち上がった、白濱が今まで一滴も湯の気がなかったところにどしどし人工の温泉を噴かし初めたのを見たお隣の湯崎でも黙視するわけに行かず温泉土地が大正十年まづ二本の試掘を初めたがこゝでもやはり失敗の記録を止めて一本は百五十尺一本は六十尺で工事中止を余儀なくされたが、そのうち白濱が海中の湯を白濱館に引いて内湯旅館を営業し始めるや湯崎の旅館業者も今までの名物湯崎七湯の外湯では到底対抗出来ぬというので大正十三年湯崎有田屋が自宅敷地内に一本掘当てたのが不惑間歇泉であったこれを見て各旅館、土地会社等は競って内湯を掘出したので温泉試掘界は、未曾有の好況を呈し人夫達は方々から奪い合いの有様で「ウントコサのをじさんウントコサのをじさん」と村民から大持てで懐ろは大ぬくぬくだった。 ところがこゝに大問題が持上がった、昔から牟婁の湯として謳われている舊湯崎七湯の濱の湯、鑛の湯、元湯、疝気湯などが俄に変調を呈して湧出量も少なくなれば温度もうんと下がって冬などぬるくて入れぬという始末、内湯のある旅館は大した影響はないとしても内湯のない旅館は非常な恐怖であったから上を下への大騒で「お前の家の内湯が濱の湯に影響したから掘った内湯を埋めてくれ」「お前の内湯は鑛の湯の泉脈と一緒だから掘るのを中止してくれ」などと紛糾はますます大きくなり果ては学者の意見を聞くことになって京大地質学講師石川成章氏を招聘して鑑定を請ふやら連夜協議会を開くやら揉め抜いた揚句、減った温泉は改めてその傍に温泉を掘って復活することゝして問題は円満に解決したがこの騒ぎに面食らった県当局でもこのまゝ捨て置いては一大事と気がついて時の今松保安課長、東次席警部らが別府その他の温泉地の実情を調査して出来上がったのが「他の温泉より一町以内のところには断じてボーリング相成らぬ」という県令鑛泉工事取締規則でそれからは温泉を掘るには許可願いを出して成功の上は存置願いを出すなど手続は大分面倒となった。 かうして総てに秩序立って来るにつれて取締りも、経営者も、技術者もみんな頭が進んで来て白濱土地に玉置三七郎氏が専務としてその衝に当るようになって新温泉試掘予定地の鑑定のため東大教授小沢博士を招いて精密な実地調査を仰いで掘ったのが同温泉の至宝小沢湯(深度六三〇尺温度摂氏四五度、湧出量二〇〇石)でそのあまり湯で村人が海岸につくった浴槽は本紙温泉座談会でも好評を博した露天の天然湯である。つづいて三百石、五百石という大温泉脈を掘り当てゝ量においても熱度においても本県温泉ボーリング界の一紀元を劃するにいたった。
五百尺余の手堀に六千五百円 高い頃は一尺八円から十円、人夫の懐中はいつも温か
新商売の温泉堀の社会にも時の流れは堰止めがたくなった十数年の間にその方法、様式、技術の一大躍進を見て一時は県下を風靡した温泉堀のうちにはすでに舊式に属するものとして失業者の群に入ったものや元の商売に復帰したりしたものも少なくないのでこれらの人々は試掘揺藍時代の好況を願みて科学進歩の急テンポをかこっている、その一番舊式の様式を上総堀りといって上部に弓を張り弦のところから割竹を吊るしそれをいくつも継いで先端にのみを着けて二人がゝりで「ウントコサのホイ」と、掛声もろとも掘り込むものでこれで一番深く掘った記録が五三〇尺、次に足堀に進み最長八百尺まで掘下げた、この足踏み式のものが久しく続いたのち口径も大きく深度も深くする必要上二、三年前から石油試掘すら発達した動力ボーリングに変わり熱海温泉から竹末一郎氏らが本県に乗込み二馬力のモーターでドスンドスンと掘り初めてから深さは千三、四百尺に達し、パイプの口径も上総堀りの三吋(インチ)内外に対して四吋、四・五吋とだんだん大きくなって来た。 ではこの温泉堀りにどれだけの経費がかゝるかというに最初白濱土地が掘ったころは景気も今よりよかったのも原因しているが五百尺余の手堀りに六千四五百円もかゝつた、今白良濱の海中に景気よく湯を噴きあげている温泉などは設備費共で二万円はかゝつている。 総て費用は堀進の尺数で支払うことになって居るので高いころは一尺八円から十円、百尺以上はそれに五十銭を加えるという法外の工費を要したので人夫の懐ろはいつもお金がタブついて居たが今は同業者も多くなり動力で掘るところから深度も千尺以上となって来たので勢い経費も安くなり一尺二円ぐらいとなった過去十四年間に湯崎と白濱で掘った温泉の数は成功と失敗を取りまぜて湯崎四十本、白濱三十本計七十本で一本平均二千円と見ても十四万円の巨費を投じたわけで旅館に内湯が出来れば浴槽も要るし浴槽だけ新しいのも不都合だと新築、改築するものも多くなりその上温泉維持にも金がかゝるので下駄一足新調したために着物から帽子まで新調してしまったような状態で内湯のなかったころの方が懐中が余程楽だったと愚痴をこぼす奇現象を呈して来た。 温泉さえ出れば付近一帯の時価は騰貴する、この新しい投機事業に第二の恐怖が来た、技術の進歩から一時間五百石の大湧出する一方温度もせいぜい五六十度であったのが七十度、八十度と上昇し紀南の新温泉では本年七月末に復舊した第二稲荷温泉が摂氏八十九度という沸騰点に近い高熱となったので従来温度が低過ぎてそのまゝ浴用とならずに捨てゝいたものもこの高熱泉と混合して四十余度の人体好適温に調節してパイプでそれぞれ配給するようにしたのでどんな小さい別荘でも旅館でも低廉な費用で絶えず自家の浴槽にブクブクと湯が送られてくるので需要家も経営者もまづこれで安心とほくそ笑んでいたところえ突如湯崎の御幸の芝、稲荷湯、鑛の湯、白濱では衝基(つくもと)、走り湯といづれも自慢の大温泉ばかりがバタバタ変調を呈し熱度も下がれば湧出量も日一日と激減し果ては一滴も出ないものさえ現れて来た。
温泉糞詰まりの悩み その防止に新案の装置を試験、当分は濫堀時代
温泉の大変調に驚いた温泉経営者たちは早速パイプを調べたところ灰白色の湯の花がぎっしり詰まって岩よりも堅い膠(にかわ)着にどうすることも出来ず、とりあえずその穴を掘り返すことにした、これには殆ど初めから掘るのと変わらぬ時日と経費を投じてやっと復舊したのはまだよい方で、中には工事半ばにのみが落ち込んで遂に廃棄した温泉もあり復舊したなかにも一年あまりでまたパイプが詰まってしまうなど大自然の悪戯にすっかりヘコたれた経営者たちはまた学者の意見を聴くやら技術者に鑑定さすやらいろいろ苦心したが適当な防止策がない、ただ原因として小沢博士らの意見は今までの温泉は石灰層の上に浸み出た温泉が石灰層下の高熱によって間接に温められて小量づゝ地表に噴き出しつゝあったのが最近のポーリングによりその石灰層を打ち砕きその下から温泉を噴き出させたので温度も俄かに上昇し、量も莫大なものとなったその結果としてこの高熱泉が石灰層を多量に溶解して来てパイプを通るためパイプの内側に付着結晶するものだろうとわかっただけでそれからこゝ三、四年間は温泉糞詰りの事故続出にはとうとう持てあまして最近の傾向としてはポーリング工事に温度が摂氏六十度くらいになったらいかに多量の温泉がほしくても早速工事を中止して高熱による石灰付着を避けるなど極めて消極的の防止策をとって来た。 本年初夏不幸この温泉糞詰りの災厄に会った大温泉走り湯では例によって竹の動力ボーリングの手で掘り返しを初め昨今一時工事を中止しているがこゝに新案の特殊装置を施して効果を試験することゝなった、方法は、パイプを二重にして内側にもう一つエボナイトの管を入れておいて、いざ糞詰りというときくだんのエボナイト管を手早く抜き取れば跡にはちゃんと代わりのパイプがあって簡単に鉄管掃除が出来るという算段、果たして計画通り行くかどうか、温泉界興味の一つでうまく行けば将来の温泉経営の上に貢献するところは大したものだ。 温泉堀りを初めて本県へ来たころから手堀り、足堀り、機械堀りと今に温泉堀りをやっている瀬戸の古田百合蔵さんは温泉堀の苦心について語る。 工事中に一番困るのは温泉がブクブクと噴き出してから突然軟らかい地盤に出くわしたときで湯のために大きな空洞が出来てそれが崩壊してのみを埋めて下手をするとのみを落し込んでしまうことがあります、そののみを取り出す苦心はなみ大抵でなく温泉堀りの等しく恐れるところですがこのごろでは地質の弱いところに出会うと上からセメントを落としこみ一旦穴を埋めて棚をこしらえそのセメントの中を掘って崩壊を防ぐこととしています、また困ることは片方の岩が堅く片方が軟いとき湯はどうしても軟い方え向きたがって眞直に掘って行くのは中々むつかしい、以前の上総堀りでは堅い地質のところは一日四、五寸しか進まぬこともありましたが動力になってからは二、三尺平均に進んでいます。湯が湧き出すと小屋の中は湯気のために百度内外の蒸し暑さで夏のころはなかなか楽な仕事ではありません。 紀勢鉄道も南下して南紀の勝地はいよいよ世に出ようとする時今少しでも温泉の出そうなところは至るところで試掘の計画が進められていることとてここ当分は紀南地方は温泉濫堀時代を現出するだろう。 注、東大助教授理学博士小澤儀明氏は昭和2年12月白浜温泉土地会社の依嘱により白浜に来て地質調査し温泉試掘地点を指示された。 |
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