瀬戸の瀬戸の藤九郎さん

 紀州の瀬戸半島ー白濱温泉の瀬戸浦にある藤九郎さんという祠(ほこら)は、ところの氏神(うじかみ)、村社熊野三所神社の境内から離れているが、奮藩の頃からその摂社と書きあげられていて、今もそのまま末社ということになっており、僅かばかりの境内にささやかな祠があるに過ぎぬが、昔からかなり名高い神様で、単に書物にあるだけを挙げても元禄の紀南郷導記、正徳の一夜船と閑際筆記、享保の鉛山記行、延享の本朝俗諺志、文政のます穂のすすき、

嘉永の紀伊続風土記、蔓延の西国三十三所名所絵図、明治初年の南紀徳川史などあり、大正、昭和にも書物に出たのもがあり、最近では中山太郎氏の日本民族学辞典にもドクロシャとしてあげている。白 濱温泉は大正末の開創であり地つづきの湯崎温泉は往古から存したが、奮藩のころはまだ大したことはなく、従うて所謂宣伝に利用されたのでもないに、南紀に僻在した名も浦の小さな祠がこんなにまでものの本に書かれるなど、ちっと他に類例が稀であろう。
 藤九郎さんの祭神ついては、
(イ)藤九郎盛長の霊を祀るという説。
(ロ)藤九郎はトクロの訛りで髑髏を祀るという説。
(ハ)箱船にのって漂着した老人の霊を祀るという説。
(ニ)藤九郎はトコロヅの訛りで徳勒津の宮であろうという数説があり、
その霊験については
(ホ)航海を守護し給ういう説、殊に碇を失いたる時祈れば浮きあげたまうという説。
(ヘ)疫病を護るという説。
(ト)境内の草木をとり又は神の遊んだ岩礁を侵すと祟りありいう説などがある。
まづ文献をザッとあろうてみると、
紀南郷導記は
「瀬戸浦の山にトクロの宮と云うて社有り、華表より内にて木の葉一つにても取れば忽ち煩うと云う。この宮を誤って藤九郎の宮といへり昔頼朝卿の長臣盛長、この所に流罪せられ卒す、即ち神に祀りしと也」
とあるが、私の見た写本にはその次に「謬誤也」と別筆で書きいれている。郷導記は紀藩士児玉左衛門尉が元禄の末に撰したもの、祭神を藤九郎盛長としながらトクロの宮が本当で藤九郎の宮は誤りだとしているのが注意を惹く。
一夜船は戯作者北条團水の作で奇事異聞の読みものであるが、同社は何神と知るものがながったが、「あるとき、神霊が巫女に乗りうつり、われは藤九郎盛長が霊也、うつほ船にて流れより里人のために神にあがめられぬ。疫のなやみを守るべし」と告げたとある。
閑際筆記には
「或ヒト、邪神は是何物が成所乎、曰我を先輩に聞、人を以て言ワンニ、凡閭○の小人、身厳刑に羅、或は争闘に死、或は○抂に殺サレ、或は畏厭に歿せる物、其怨気結して不散して妖を為、人之察せず、祭て為スレ、紀州田辺藤九郎の祠の如是なり。」とある。
筆者は正徳五年九月刊行、著者藤井懶斉は京都の儒であるが、藤九郎の社は何が故に邪神であるかはもう少し藤九郎さんの内容にふれて伺はぬと何とも分り兼ねる次第である。
鉛山記行は
紀藩文学祇園南海が享保十八年四月温泉に遊んだ記行であるが、その一節に「有社曰藤九郎、祠末知何神、渉海者遇風乃投銭物洋中愍祈、輙應、其銭物潮送之必致祠下」とある。南海はさすがに天下の才物、未だ何神なるかを知らずと肝腎のところを外しているが、航海者が風波を祈って験あり神威異常なりとの俗言は、すでにその頃存したことを明らかにしている。
本朝俗諺志は
俳人菊岡沾涼の著で延享四年の出版であるが「綱不知神社、紀州綱不知の山上に社あり藤九郎盛長の霊を祭、廻船碇をおろしてあがらざる事あり其節いつくもあれこの神に祈願すればかるく上、事神変也」と載す。
ます穂のすすきは
和歌山のわたの人の翁の書いたものであるが「安達藤九郎盛長社は牟婁郡湯崎瀬戸浦に有、本朝俗諺志に盛長の霊験の事を載、船人沖にて碇を失ばこれ藤九郎神に祈請すれば必海より浮と云、又一説に瀬戸の藤九郎の社は古の徳勒津の誤也、日本書記に仲哀天皇紀伊の国居徳勒津宮と有はこの所なるべし音訓して徳勒津を藤九郎と謬と云共証実無暫く土人の口碑に随う」とある。
紀伊続風土記は
「神体衣冠の木像なり何の故に盛長を祀るか其事詳ならず土人の伝へに昔盛長うつろ舟に乗りてこの所に来り住むその葬地村中にあり土人祠をこの所に立て祀るという又或は伝へて髑髏の宮という土人甚崇敬し舟に乗るもの尤も奉崇するとぞ。今按ずるに藤九郎は髑髏の転にしてその髑髏の流れ寄りたるを埋葬せしに崇などの事をいい触らし村民等祠を立てその霊を祀りしより髑髏の称号転じて藤九郎盛長と呼会ししならん」とある。
西国三十三所名所絵図の記事は
盛長社の縁起書などを出しているがかなり宣伝味が多量に加わっているから、ここには省略に従う。
南紀徳川史は
ます穂のすすきを収めているのである。
なお以上の妙出中に或は田辺として或は綱不知としているのは、附近の地名で当時その地名を負うたものであろう。
 さらに、文久二年の書上げをみると「縁起奮記無御座候故勸請之時代相知不申候得ども往古四郎太夫居宅之裏に御座候勸請せし由申伝ニ御座候則此所を盛長宮奮地と□□□□(不明)不浄忌給ふ此所へ御所持之品埋候山申伝ニ御座候」とある。
これは文久の分しか残っていないが、もっと以前、恐らく元禄の頃からこういう書上げをしていたものと推察すべき理由がある。四郎太夫の家は姓を西といい、代々当主を四郎太夫いう、藤九郎に神主として使へて明治に及んだ。いまもその家存し親族も多い。瀬戸で伝へいう、昔箱船に乗った老人が漂着した、祖先の四郎太夫がその老人を助け箱から出していたわりかしづいたが、老人は喜んで四郎太夫に姓を西とつけ、毎日浦の遊び島という磯へ魚釣りに出かけ機嫌よく遊んでいたところ、ある日釣りあげたウツボに噛まれて死んだ、その老人を祀ったのが藤九郎さんであるという。遊び島は船をつけ又櫓や櫂がふれると祟りがあるといい、今も浦人はこれにふれぬように注意しているという。それから箱船は最初江津良の浜へ流れよったが、ところの人々は助け出さず、そのまま沖へ突き出したので、江津良の人が参拝し祈願すると、神さまは横を向いて知らぬ顔をするという。また藤九郎が鎌倉幕府の創業に功績を立てながら、讒者のために瀬戸に配流されて年を経、ここに歿して神に祀られたともいう。
 明治の末、大正のはじめころまでは、船乗り殊に帆船によって各地に往復する人々の尊崇は非常で、海路の安穏を祈ったお礼まいりには船頭、水夫、炊夫まで打揃うて参拝、船からは船の幟(のぼり)に米を包んで持ちゆき、賽供するを例とし、讃岐の金比羅さまと同じほどの船の神さまになるはずなどいう。
 以上は、藤九郎さんを語るすべての資料とは申さぬが、庶幾いものと言えると思う。さてイ、ロ、ハ、ニの各説のうちいづれに従うてよいかそれは説いて断ぜずの旨により差出口は控えておくと致したい。しかし南方先生は「村人はもとより他国他境人、殊に航海者の崇敬異常にして其近海を通る者、少しく不礼あれば忽ち罰せられて其船転覆すると恐れたる有様、中々頼朝の家族杯を祀れる者と思はず」とて、或はトコロの宮で行宮の義であったのを、中世朦昧の世、謬まって安達盛長の伝説などに附会し、藤九郎の宮にして仕舞ったのでないかと言われていることだけを附加して置く。とにかく、小さな祠でこれほど問題をひろげているのは例少ないであろう。

                 参考文献 昭和10年3月17日発行 雑賀貞次郎著 温泉説話 藤九郎の話 その他
注、いふ、いひ、ゐなど現在文に修正、○は文字を調査中。