大阪商船紀州航路廃止

  昭和13(1938)年11月13日、明治32年1月より続いた紀州航路も「止むを得ざる事情により当分休航の外なき ことゝ相成り」と発表休止される。

 大阪商船の紀州航路廃止(昭和十三年十二月 温泉の紀州)大阪商船の紀州航路ー和歌浦勝浦間の急航線はさる十一月十日夜和歌浦にて複航し金曜にて大阪に帰りたるが、そのまゝ同線に就航せず同十三日商船会社から「止むを得ざる事情により当分休航の外無き事と相成」と発表され即日休止となった。同航路はさる八月六日従来の大阪ー勝浦間を改め和歌浦ー勝浦間として発着時間をも変更するとともに那智丸、牟婁丸(各千六百トン)を他に廻航して天祐丸(千二百トン)のみを止めていたもので、熊野地方はこれを不便とし、新宮市長らが音頭取りとなり、同地方が団結して商船会社に復活を運動していたが商船側としては船腹不足の折からであり、かつ省線の延長による貨客の減少で、缺損勝ちの航路でもあるので、地方の希望に応じ兼ねつゝも、俄かに廃航する意思もなく考慮中であったのであるが、突然止むを得ざる事情から休止するにいたったものである。地方では休止の報に驚きながら、その事情を諒とするので、止むないものと諦めているが、とにかく、これで和歌浦、田邊、串本、勝浦の四港は大阪商船として休止乃ち廃港となった。

 連絡汽艇とバス休止

 右、大阪商船の勝浦線休止により同急航線に田邊文里港へ連絡していた白浜桟橋ー文里港の連絡汽艇も休止となり又田邊駅前ー文里港間の連絡バスも休止となった。

 注、大阪商船の紀州航路は明治32年1月紀州汽船と協同して大阪日方間の航路を田邊に延長し、木造270トンの紀伊川丸を廻航したのを最初とし、間もなく紀州汽船を併合、同年12月三輪崎まで延長、翌33年には名古屋に延長して大阪名古屋間の紀州、勢州の各港に寄港し明治42年緑川丸、龍田丸(各408トン)を以て別に大阪勝浦間の急行線に○門丸、琉球丸(各720トン)を配置し、大正15年さらに那智丸、牟婁丸(各1600トン)の優秀客船とし、天祐丸(1200トン)は補缺船として大阪、和歌浦、田邊、串本、勝浦の五港を廻航紀南交通のナンバーワンを誇り、後ち名古屋線を摂陽商船にゆづり、急行船のみを経営していた。白濱・湯崎はこの急行船に、田邊文里港から白浜桟橋へ汽艇で連絡し、京阪神の遊覧客に便していた、従うてこの海路の便は温泉場の発展史に特筆して記念すべきである。この海路の便は紀勢西線の延長と支那事変とにより遂に中止されたのであるが、当時これを惜むものが甚だ多かった。

注、○は文字が判読できないので、○としています。