昭和40年4月1日宅地造成前の三軒屋付近と記載された額入りの写真。 |
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その一の写真の一部(写真に向かって左側約5cm)は合成されていましたが、切れ目や濃淡など修正した。 この写真の三枚は額入りでタイトルが「宅地造成前の三軒屋付近」でS40,4,1と記載されていました。 宅地造成前とは昭和45年3月26日東白浜区画整理事業のこと。 まず、写真の撮影年は確定できませんが、東白浜区画整理事業前のほぼ全区域の航空写真をご覧ください。続いて航空写真の三軒屋付近の拡大写真をご覧ください。 この写真の額入り三枚組の写真の場所が大体わかります。 また、額入り三枚組の写真で、航空写真もほぼ昭和40年頃から昭和45年の間に撮影されていることがわかります。航空写真の撮影年は後記する。 写真その一の写真に向かって右上に新しい白い建物は三軒屋の風呂です。 「昭和11(1936)年12月30日、東白浜土地の温泉をもらって綱不知住民専用の浴場を地蔵堂隣りに建て、無料で男女混浴だが開放する。 」と村の日記に記載されています。 この昭和11年のは地下湯です。 記録には出てきませんが、三軒屋にも風呂があり、この写真の場所とは別の場所にあって、この写真の三軒屋の風呂は写真で見ると、つい最近に建てられたように見える。 三軒屋の古老の話によると「その前は別の場所にあって、白浜御苑の増築によって、写真の場所(現在)に移転新築した」と云う。 この三軒屋の風呂の傍に池があったと聞いたが、写真にもあります。また、この 三軒屋の風呂付近に映画ポスターが貼られていたのでしょう。男性二人が映画ポスターを見て歩いています。実は、二人とも立ち止まって見たいる写真もあるのですが、少しポスターが見えないので、省略しました。 立ち止まってポスターを見ている写真を撮影して、歩き出したので慌てて撮影したのでしょう、少し斜めになっていますが、 町内何処でもよく見かけられた、当時 がしのばれる写真です。この写真バックに薄く山のように見えるシミが二本入っています。 額入りにならなかった写真は、大きな傷がありましたが、得意の画像処理で修正に成功しましたので、ご覧ください。
これは、珍しい写真で、三軒屋の谷から松の木地蔵の松を撮影されています。
現在は地蔵の傍に大きな松の根を置いていますが、この写真からも大変大きな松の木であったことがわかります。 松の木地蔵の場所は、綱不知から第一小学校に行く途中にある共同墓地の入口 にあります。 額入り三枚組以外の写真は、写真の裏に昭和40年と記載された写真や記載されていない写真もありましたが、ほぼ同じ年代と判断してまとめて掲載しました。又、これらの写真で、家の名前など聞きましたが、全て省略しました。 昭和39年11月29日白浜電報電話局舎が完成して電話が自動ダイヤルに。 昭和40年8月7日白浜郵便局新庁舎落成 上記は、写真下部に撮影されていますが、下記は撮影されていません。 昭和41年2月10日白浜会館完成祝賀式・白浜美術館も完成開館した。 昭和40年8月7日白浜郵便局新庁舎新庁舎落成の建物が撮影されていますが、落成されているかは不明ですが、ほぼ竣工に近いと思っています。 又、この写真での坂田方面は、まだ白浜会館の建築工事中でもなく、この航空写真は、昭和40年に撮影されていると思っています。
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