鉛山鉱山を閉鎖
千三百年の歴史に幕
白浜温泉では「崎の湯」とともに大宝時代(七〇一〜三)に三段、平草原の「鉱山」が世に知られ続日本紀に、大宝三年五月に銀が出て献じたと書かれ、その後、瀬戸鉛山村と地名にまで使われたほど切っても切れない三段ハマブランカ南側に残る鉛山鉱山の入口を閉鎖し本格的に廃鉱とする。
同鉱山は鉛や閃亜鉛鉱、黄鉛鉱などがあり、約千二百七十年前の続日本紀にも書かれ大正時代には和歌山の人が個人で、坑道をつけ本格的に掘り出し、月産七〇トンを生産、昭和八年から十年間は三菱鉱業が坑道を新設し、作業を行っていたが、太平洋戦争とともに掘削によって温泉が枯れる恐れがあると問題になり昭和十七年閉山された。
昭和二十六年昭和鉱業が二年間調査を行った後、三十一年に同社からほとんど無償の形で鉱業権が町へ渡った。元来町所有地だったためと、権利を持っていれば温泉などのトラブルもなくなるとの考えもあった。しかしこの程権利の消滅登録もすませている。
しかし、昭和四十八年にできた金属鉱業等鉱害対策特別措置法に基ずき現在残っている坑道の入口をコンクリートなどでふたをし、完全に廃鉱にする事になった。国庫補助もつき、七月着工する予定。
続日本紀に「大宝三年五月令紀伊国阿堤飯高牟娄三郡献銀」と書かれているなど歴史的なものであり、本坑の入口の型はそのまま残す。
現在三菱鉱業が造った本坑入口や古い坑道など残っているが、坑道附近から今なお赤褐色のヘドロが海まで流れている。使用されていない堆積場も台風などでくずれ、ヘドロも長年にわたり流れ出ていたが、防止される。
大正時代には近くの海岸はアワビの宝庫として知られていたが、本格的に堀さくが行われた大正から昭和にかけてアワビも少なくなり、今ではほとんど絶滅している。
夏休みなどには高校生が勉強の一助に同所を訪れているが、危険な所もある。
下記は、私の記述。
上記に言う、梶原の鉱山と「大宝三年五月令紀伊国阿堤飯高牟娄三郡献銀」と結びつけるからややこしくなります。
祇園南海の「鉛山紀行」、鉱山発見年(町誌)を参考にすべきで、これらは他市町村の市町村誌を研究する必要が残ります。
また、白浜町誌の鉱山の発見年にも、強く疑問を持っています。 |