白浜にある? 有間皇子の墓 牟婁の湯(白浜温泉)は景色もよく、病にもよくきくと、大和朝廷に紹介した悲劇のプリンス・有間皇子は、白浜温泉にとって大恩人であると共に、白面の貴公子が政争のわなにはまって、短い露の命をちらしてゆくロマンは、あまりにも哀しく美しい出来事であります。
家にあればけに盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る と言うニ首の名歌をのこされ、海の向こうに見える白浜温泉をながめながら、松の枝に紙を結び身の安全をいのりました。そして牟婁の湯で中大兄皇子にむほんをせめられましたが、只「天と赤兄が知る、私は知らない」とだけ答えます。その後なぜか海南の藤白坂まで引きかえして絞殺されたとなっています。今日は日本書紀をもとにして、白浜の恩人有間皇子の最後を推理してみましょう。
孝徳天皇は大化の改新を行った天皇とされていますが、実はこの改新はいとこの中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって実施したもので、孝徳天皇は、かざりの天皇であったようです。だから自分を無視する中大兄皇子とは仲が悪かった。その上、実姉皇太后(三五代皇極天皇、三七代斉明天皇、同一人)も皇后も中大兄皇子と行動を共にしたため、その立場は誠に孤独でした。そのうえ大化の改新が非常手段をもって実行にうつされてから世相は暗く、疑心暗鬼が宮中を包みました。その上改新の功労者、右大臣蘇我倉山田石川麻呂がざん言によって中大兄皇子の軍兵に囲まれ、うらみをのんで自殺したのが大化五年の事です。この事件をきっかけに反改革派の人がとらえられ、人々の心は中大兄皇子を怨む心が重くただよう事になります。このような中で白雉(しろきじ)五年(六五四)十月十日孝徳天皇が中大兄皇子と不仲のまま亡くなり、ただ一人の遺子、有間皇子は、当然、天皇を即位する位置にありながら、伯母が老体にもかかわらず、天皇制の中で例のない二度の即位をして斉明天皇となりました。その上、中大兄皇子が次期天皇を約束される皇太子となるにおよんで、有間皇子は好むと好まざるにかかわらず反改新派の代表的な立場にまつりあげられていったのです。このような背景の中で有間皇子謀殺の悲劇はクライマックスになります。 斉明天皇四年十月(六五八年)斉明天皇は、有間皇子のすすめで白浜温泉に来て、御幸の芝(または蔵のはな山上)に御座所を作りました。この湯治には中大兄皇子も同行しています。大和の都には中大兄皇子の腹心、蘇我臣赤兄がとどまっていました。ここで赤兄が十一月三日に有間皇子に斉明天皇の三つの失政を言って謀反をすすめます。皇子は赤兄が自分に好意をもっている事に大変嬉しく思いましたが、十一月五日脇息の足がおれたのを見て不吉を知り、自宅に帰りました。赤兄はそれを見て有間皇子が謀反を起こさない事をさとると、その夜半、皇子の生駒村の自宅を取り囲み、牟婁の御座所に早馬で有間皇子が謀反を起こしたと報告させました。そして九日、有間皇子と主だった供を捕らえ天皇の命令として白浜への旅がはじまるのです。ここから皇子ファンの推理が始まるのですが、日本書紀ではわずか三日後の十一日に藤白坂で絞殺されています。 また有間皇子の二首の和歌は十一月十日に磐代の地でよんだという説もあります。これらを合わせて考えますと生駒から白浜まで約六十里、この行程を何で来たか、人の足ではどんなに急いでも一日十里が限度です。まして秋の短日の事、三日たっても半分しか来られません、やはり馬や舟に乗りついだと考えられます。まず生駒から馬で南下して紀ノ川に出、そこで舟に乗って和歌山を出ます。そこで一日は暮れてるでしょう。十日は和歌山を馬で出て南へ南へと下ります。馬で細い山坂道をどれほどの早さで行けるのか分りませんが、走る事はおそらく無理でしょう。和歌山から約二十里はなれた磐代付近で日が暮れて夜営するのが妥当ではないでしょうか。そこで皇子は暮れ行く白浜半島を遠く海上に眺めながら歌をつくります。明けて十一日磐代を立った一行は昼過ぎ白浜に着き、午後から中大兄皇子の裁判が開かれます。 中大兄皇子の詰問に有間皇子はただ「天と赤兄が知っている。私は何も知らない」と答えます。テロ的な策略家と言う説もある中大兄皇子に、有間皇子は答える無用さを知っていたのではないでしょうか。自分の天皇即位の最大の障害者有間皇子を殺す爲に牟婁の湯に連れて来たとする説が真実に思えます。こうしてその夜、有間皇子は、中大兄皇子がさしむけた丹比小沢連国襲(たじひのおざわのむらじくにそ)に絞殺されます。時に皇子十九才、白面そう明な文学少年でした。
白浜に住む私達には、劇のプリンス有間皇子のドラマの幕がおりる事はありません。藤白坂は白浜か、その付近にあるはずです。白浜から遠くはなれることは日程的に無理ですし、また政権を倒すのに冷酷な中大兄皇子が、最大の障害者有間皇子を裁判の後に引きかえさせる理由がないからです。一説には有間皇子は磐白の地で縊死(いし)したと言われています。藤白と磐白のあやまりだと言うもので磐代なら、午後より舟で出て、日がくれた為に磐代の浜にあがり野営をし、その夜縊死した事はぎりぎり可能となります。 しらはま特集号 bP 町のあゆみ 白浜町町誌編さん委員会 |
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