臨海に在った 瀬戸御殿はどこに 紀州家の別邸

 紀州の殿様、紀州家の別邸が臨海のどこに在ったのか、みなさんご存知でしょうか。
 徳川幕府が出来た西暦1603年から四十七年経った慶安参年(西暦1650年)紀州頼宣公は瀬戸へ御殿を建てられ、この年御成りになっています。
 この場所がどこにあるのか、臨海にあった事はたしかですが、その位置がはっきりわかりません。瀬戸古事の文面を少し紹介しますと、次のように書かれています。(原文)
 

 此の山桔梗多く有り。故に桔梗平と言伝へ、これより巽松原中に先君(頼宣卿)の御殿跡在り、なお今此所を御殿場という、夫より切り通しというて石を切りぬきし坂有り。これを過ぎて馬部谷いう有り。在番の筋、是より先へ行く事相成らず。
先君の仰せに寄りて九軒家と名附けて地下九人に九軒家作を賜り居住せしむ、今は二軒計り残り、九軒の内三軒は御殿場に建ち、忠右衛門・七右衛門・清右衛門・馬部谷に六軒建つ、与兵衛・七兵衛・左近右衛門・茂左衛門・源七・善近衛  (原文)

 瀬戸御殿の御殿井戸は、臨海そごう店の横を入った御殿谷にある。おそらく御殿もこの附近に在ったのだろうと古老達は言います。
 たただ桔梗平に在った、また、松林の中にあったと言うことから考えますと、京大臨海実験所のあるあたりだと言う説もありますが、北に山を受けた立地条件からみて、この御殿谷にあったと想像されます。
 白浜はこのように紀州家の直領と別邸地として保護されて来ました。とくにこの別邸が出来た次の年、慶安四年に由井正雪が江戸で反乱を計画し、捕らえられました。この時、紀州頼宣公が正雪の後立てになっていたと言う話は、よくテレビで見ますが、その当時、白浜を愛された頼宣公が九回も白浜をおとずれて、政争のつかれをここでいやされていたのだと想います。その後、歴代の藩主も数多く来られ、将軍吉宗も来られた記録があります。

 北風が吹く寒い夕方、紀州家の別邸地臨海をたずねてみました。そごう臨海店の横を入った荒地に、御殿井戸が古老の話しの通りに板をかぶせられて、ひっそりうずくまっていました。

 

 

 

 

 

 

 此の山桔梗多く有り。故に桔梗平と言伝へ、これより巽松原中に先君(頼宣卿)の御殿跡在り、なお今此所を御殿場という、夫より切り通しというて石を切りぬきし坂有り。これを過ぎて馬部谷いう有り。在番の筋、是より先へ行く事相成らず。
先君の仰せに寄りて九軒家と名附けて地下九人に九軒家作を賜り居住せしむ、今は二軒計り残り、九軒の内三軒は御殿場に建ち、忠右衛門・七右衛門・清右衛門・馬部谷に六軒建つ、与兵衛・七兵衛・左近右衛門・茂左衛門・源七・善近衛

 瀬戸御殿の御殿井戸は、臨海そごう店の横を入った御殿谷にある。おそらく御殿もこの附近に在ったのだろうと古老達は言います。
 たただ桔梗平に在った、また、松林の中にあったと言うことから考えますと、京大臨海実験所のあるあたりだと言う説もありますが、北に山を受けた立地条件からみて、この御殿谷にあったと想像されます。
 白浜はこのように紀州家の直領と別邸地として保護されて来ました。とくにこの別邸が出来た次の年、慶安四年に由井正雪が江戸で反乱を計画し、捕らえられました。この時、紀州頼宣公が正雪の後立てになっていたと言う話は、よくテレビで見ますが、その当時、白浜を愛された頼宣公が九回も白浜をおとずれて、政争のつかれをここでいやされていたのだと想います。その後、歴代の藩主も数多く来られ、将軍吉宗も来られた記録があります。
 北風が吹く寒い夕方、紀州家の別邸地臨海をたずねてみました。そごう臨海店の横を入った荒地に、御殿井戸が古老の話しの通りに板をかぶせられて、ひっそりうずくまっていました。
 おそらくこの附近に御殿が建てられ、供の侍が威儀を正してひかえていたのであろうと、時の移りかわりを思いしらされます。山に囲まれた御殿谷の南側の山にそって、瀬戸古事にある馬部谷に至る切り通しの道があり、殿様の警護にあたった、地下の鉄砲名手九人が住んでいた。九軒家が在ったのでしょう。その子孫も今は白浜に無く、遠く北海道に移られ、旭川で今も九軒の姓をついでおられます。

帰りに瀬戸の本覚寺(貝寺)に寄って、徳川頼宣公の位牌を見せてもらいました。本堂の仏間に入って、金色の扉の奥に、三十センチ程もある位牌が、黒く重厚な威厳をもっておさめられていました。この寺が直領、別邸地として紀州家と深くかかわって来た歴史が、三つ葉葵の寺の紋にもうかがわれます。

 みなさん、臨海に行かれた時、江戸時代の白浜の歴史がかざった瀬戸御殿が、ここに在った事を思い出して下さい。
◎瀬戸古事は天明二年(一七八二年)頃書かれたもので、臨海の雑賀店の先代雑賀弥之助氏が秘蔵されていたものです。 ○地下(じげ)
 

                     参考文献 しらはま特集号 No1 町のあゆみ

                                  発行 白浜町誌編さん委員会

 

 

 

注、下記は、私の調査。

 絵図に向かって右上、○安達藤九郎盛長神社・御殿場・松原(これは文字)・遠見場所と赤記されています。

 御殿場の丸の下に丸があって赤記の文字が見えますが判読ができません。

 この絵図には、瀬戸からの道も赤記されています。

 御殿場、今の地図に当てはめると何所になるのか想像してください。

 私は、御殿谷ではないと思っています。

 その理由は、

瀬戸より松原に至る道の上に御殿場の丸があること。

 祇園南海・鉛山記行{享保十八(1733)年}に塔島の上に先帝別邸跡云々とあり、田辺湾と鉛山湾が見える白浜町大字ー屋峠から大字北の間にあったと思っています。

注、瀬戸浦絵図の抜粋

 尚、ーーー山に囲まれた御殿谷の南側の山にそって、瀬戸古事にある馬部谷に至る切り通しの道があり、ーーー。      下の写真、2005-03-03/Photo

 松原〜九郎左衛門谷〜御殿谷を経て標高約50mの頂上付近の掘割で下ると馬部谷に至。

 詳しいことは、記録映像2005年3月をご覧下さい。