臨海地蔵尊                  Photo/2005-09-26

 臨海のバス停留所から臨海浦に通じる掘割の道路左手側に、両手で宝珠を持つ「臨海地蔵尊」と彫られた地蔵は次の理由により祭られたのである。
大正十一年(一九二二)七月二十八日京都大学臨海研究所が開所される前年の工事作業中、構内からおびただしい人骨が日増しに多く掘り出され、その数四十数体にものぼり工事を急ぐあまりその人骨も粗末に取り扱われたためか、工事関係者にさまざまな凶事が次々に起き、人骨にまつわる怪奇な出来事に関係者は動揺肝を冷やし始め、工事も三月完成竣工の予定が大幅に遅れ、五月末にようやく完成、六月には盛大な竣工式を挙げることになっていたが、この研究所設置の発議者であり、また今後の経営責任者でもある所長の池田博士が急逝され、これがために急きょ開所式は延期された。

 村人たちが仏を供養しないとたたられるとの流説を聞き流していた最高学府の学究者も世論を無視できないで、六月三日故池田博士の追悼式に引き続き、これら多くの無縁の迷える霊魂を慰め、かつ鎮魂のため供養の祭壇を設け施餓鬼法要がいとも盛大懇ろに営まれた。これらの人骨は往昔、水難者としてこの地に漂着、識別できず遺族に引き取られることなく仮埋葬された者などで、古老はこうした遺体はこの辺りだけでも一〇〇体を超えるものがあったろうという。その後人骨は大学当局の手により仮埋葬地から掘り出され、本覚寺に納骨供養された後、篤志家たちにより昭和十年(一九三五)夏、無縁仏を弔うために祭られたのである。    参考文献 町誌本篇下巻一

 大正11(1922)年6月3日 臨海研究所施餓鬼法要   参考文献 村の日記

  長らく工事中の研究所が竣工し、開所式を挙行する予定の所、創立者池田岩治教授が急逝されたため延期して、同教授の追悼式と、工事中数多くの白骨が発掘されたこともあって、これらの無縁の迷える霊魂を慰さめ鏡むるために盛大な施餓鬼法要を営む。

 昭和10(1935)年11月30日 臨海裏海岸道路竣成

  臨海から田尻、江津良を経て綱不知桟橋に至る道路を村が改修していたが、田辺湾一望の立派な廻遊自動車道賂竣エ、これで便利になる。 参考文献 村の日記