和平地蔵     湯崎      地図                       Photo/2005-11-20

 昭和47年6月吉日 町内会 施主山本国男

 注、南部の千里観音から譲り受けたという。

 湯崎地区は地下に鉛の鉱脈が通っているので鉱毒が混じり飲料水には適さなかった。 そのため二か所の清兵衛井戸(三宅宅の源泉前)と仁右衛門井戸(江見宅の奥の谷)から担い桶にくんで運んだ。旅館や商店は近くの谷から「竹とい」を継いで水を引き樽に小石、棕櫚の皮、砂、木炭を入れて浄化して使用した。
 タタラ町(一丁目)の住民は井戸が遠すぎてたいへんであるため、明治四十二、三年ごろに仁右衛門井戸の側の浄土川の上流から引水した。方法は竹の節をくり抜いて竹パイプを作り継手は松の木をくり抜いて竹の両端を差し込み、隙間に綿ぎれを詰め、その上に粘土を塗りつけて約五、六百メートルを金徳寺前まで引いてきて、レンガで水ため用のタンクを作って共同貯水場とした。この成功によって大正九年(一九二〇)ごろ湯崎全域に本格的な簡易水道が引かれたひ これが湯崎水道である。
 浄土川の上流から給水して仁右衛門井戸の側に貯水池と浄化設備を建設、海岸通りの旅館や商店、一般家庭は直接この水が引かれた。海岸から上の地域では各所に共同の水道蛇口を設けた。この簡易水道は渇水時に水が不足して断水したので昭和二年(一九二七)に妙見山と山神社の間の谷を堰止めて貯水池を造り水を補給した。これで湯崎の人々はずいぶん楽になったが、便利になれば水の使用量が増加して満足のいくところまではゆかなかった。

 注、清兵衛井戸とは、「ウメバラ」の谷と呼ばれていた。

 注、@、山神社に向かって下(奥尾谷)、A、左の大山口、B、この和平地蔵の上、C、和平地蔵の湯崎山上通り上、その上の道を上がり直ぐに右折れして真直ぐ上のカープの上 の谷に池があった。