上富田町朝来より日置川町矢田まで

 (前文略)、安居辻松峠に出る。峠の地蔵と既に枯れた松の幹が横たわる峠の東側は、日置川町で日置川町で峠の説明板が立っている。

 北への林道をとると安居へ下り、南にイバラや草の茂みの道を下るのは中世の古道である。峠から南へ約1キロの間、草を押し退けて下ると林道に合流し、200メートルで岐路を右に、さらに200メートルで林道を左に分れ、歩きにくい岩の崩れた登りを南に進むと、シダの茂る山道を登って尾根を越すと道も良くなる。檜の植林の中を下り、暫く田野井辺りが眺められるようになると、ジグザグの急な下りとなり、天徳寺の下を通り日置川畔に出て、宮ノ前で日置川を渡り、追ヶ芝を経て矢田に出る。

日置川町矢田より安宅峠越 すさみ町周参見まで

 日置川町矢田北部には立派な宝勝禅寺があり、その南部東方の小山に安宅氏の安宅城跡がある。

歩きやすい山道を登ると、途中に廓跡と見られる二段三段と平地もあり、頂上は広く、表示はないが小祠が祀られていて、古城の跡を良くとどめている。

 矢田南部の安宅八幡神社堺内に、天然記念物いちいがしの古木がふる。

 JP線をくぐり安宅を東に進むと、坂本の集落があり、新しい集落があり、新しい住宅が立ち並び、道路も良く整備されてあるが、その中頃から安宅峠を越す古道がある。傾斜地擁壁の中断された所から石ころがゴロゴロすめ険しい登りで、あまり人が通らないため荒れていて、登るにつれて絶えだえになる。

 古道入口の南部、宝ノ谷(ほうのたに)の近畿大学演習林入口に、頭部を欠いた道標が、丸い石を乗せ、ブロック積みの屋形内に祀られているが、肝心の左側の文字は欠けて傷み、読み取れなく、右は「やまみち」と判読できめる。

 古道は急な尾根の南側、宝ノ谷の上を巻くようにして雑木の茂みを抜け、杉林を進み、再び潅木帯を抜けて安宅峠に達するが、短い距離に案外時間を取られる。峠には石龕に納められた地蔵が祀られてあり、

辺りは少し広くなっていて、すさみ町側から来て花など供えられているようで、峠から少し東に行った道端に、明治30年周参見内と刻まれた供養地蔵がある。

 峠から東は、すさみ町となるが、すさみ側の道は踏跡がつづいているとは言え、潅木とシダが道の上を覆い、イバラも多く、相当な難路となっている。

 東南に約1キロの間はこのような状態がつづき、西方に朝来谷を隔てて安宅山頂のテレビ中継等が眺められ、所々広い道が現われて、上り下りを重ねて、ブッシュの尾根の西側に沿って進む。

 やがて道は下りとなり、228メートル峯の南でやっと道らしい道に出るが、三叉路の所に地蔵道標がある。ここで道を左にとると太間地に下り、右の道はゆるい上りであるが、古道の本筋のようで、これを進むと間もなく岐路が右に下るが、これはすぐに炭焼跡で行止りとなる。左の道を南に下ると、遊歩道が西に分かれる。

 この辺りは南方の眺めの良い所で、さらに約800メートルで遊歩道は右に分かれる峠状の明るい所で、古道は直進して下る。200メートル程で十字路となり、直進すると急な下りになり、太間地集落の家の間の狭い道を抜けると、集落内の広い道に出る。

 太間川に沿って曽根田橋を渡り東に進み、JR線を横切り、周参見川を渡って、本城の古座街道に出て、ここから南に向きをかえ、JRすさみ駅前に出る。

 後文略。

 参考文献

 熊野古道を訪ねる 武藤善一郎著 経済新聞生活情報センター発行 平成3年5月10日

 注、日置川町は2006年4月1日より合併より白浜町。

 注、略図は三枚の略図を一枚し、一部削除した。

 注、記述にある古道を赤線にした。


 周参見坂 安宅伊森山(古く湯森といった)の近くに右は山みち左すきみ道と書いた道しるべ石の立っている事はこの坂道を他所の人が通行した事を物語るものである。宝谷山の腹を登りつめると峠に一つの地蔵さんが祀つてある。小原桃園日記にも峠の地蔵という文字が見える。上下大体一里半富田坂、仏坂に比べて道は悪いが周参見のポテ売り(魚行商人)が安宅、矢田あたりに毎日この坂を越して来たので可なりの人通りがあった。その魚売りの中に頭に籠をのせた老婆が二人程あった。その人の話では今は(五十年位前)あまりのせないが昔はこうして運んだそうである。更にこの坂の上手に「オリト」と言う処があって赤松由松氏の屋号ともなっているのですが、そのあたり字名に坂尻という処がある点から考えると、この坂が今の登りロがオ リト辺にあったのではないか。と思われる。即ち峠の地蔵さんから尾根伝いに下るとこの辺に達するのと丁度この辺の谷口に昔弘法大師が水を出したと言う浄水の沸く所があり更にその附近にガマ岩と呼ばれる巨石がある事です。

ガマ岩と弘法の遺跡

 参考文献 日置町志 安宅常助著 日置町役場発行 昭和31年6月20日発行

 安宅坂峠の松

 地蔵尊を祀る村境にして、休み場なり、其の昔、隅田栄助は安宅より、浜一郎右衛門は大古より養子となりて周参見に引き移りし人なり、四季の休みには相伴いて此の坂を往復せしが、良き休み場なれど日陰なきを以て、二氏は記念の心にて松を植えしと言い伝う。今は樹齢百年にも近かるべきか、地蔵尊は宝永五年(1708)戌子三月吉日の建立にして、今を距ること二百一年なり。

 行者の森

 大間地山に祀れる役の行者の縁日、旧暦正月七日なり。夏期旱魃(かんばつ)打ち続く時は、大間地部落の農民は此の行者の森に籠りて雨を祈るを常となす。

 行者山上の地蔵

 右はあたきみち左はやまみちと知らせ給ふ地蔵あり、此の所より東方を瞰(み)下せば周参見全景手に取るが如し。

                         参考文献 改訂復刻 周参見村郷土誌 明治43年8月15日発行

 安宅坂

 大間地・小泊・朝来などから安宅に通じる古道。

                                             参考文献 周参見村郷土誌注解

注、周参見村実測全図 縮尺二万四千分ノ一を一部スキナー、画像処理した。