有間皇子のこと

 有間皇子、有馬皇子とも書く、間と馬といずれが正しいかは知らないが、古代の人は漢字を音にあてて書くに文字の相違には現代のほどこざわらなかったらしい。ここには間の方を用いるが、これも文字にかかわらぬのである。さて書紀斉明天皇の同天皇四年の条に、前に挙げたように有間皇子の刑死のことが出ている。皇子は紀の記しているように性格が黠(さとい・わるがしこい)であったろうか。果して謀反を企てたのであろうか。それはただ紀に記載があるだけで、これを信じてよいかどうか。色々の意見があるらしい。ここですこし皇子のことを書く。

 有間皇子は孝徳天皇と小足姫(おたらしひめ)との間の御子で、紀の孝徳天皇の巻に「元姫。阿部ノ倉梯麻呂大臣ノ女。日小足媛、生有間皇子」とある通りである。御同母の兄弟も、妻子も無い御身であった。

西暦

     

626

 

 父は田村皇子、母は宝皇女

中大兄皇子誕生。またの名を葛城皇子(かつらぎのみこ)

629

 父田村皇子即位、舒明天皇。

   

641

 舒明天皇没。母、宝皇女即位、皇極天皇。

   

645

 皇極天皇退位。軽皇子(中大兄皇子の叔父)即位、孝徳天皇。

   

646

   

「大化改新詔」を発布。

654

 孝徳天皇難波宮にて没。

   

655

 宝皇女、ふたたび即位、斉明天皇。

   

中大兄皇子は孝徳天皇(645-654)の妹、斉明天皇の長男。

という関係で皇位の継承者としては皇太子中大兄皇子に対し、有力な存在であり唯一の競争者であったと見られる。紀には皇子を「性、黠し」とし、皇子が牟婁ノ温泉に遊んで帰り、温泉地の風景を讃めて、纔、彼の所を観るに、病、自ら蠲(のぞこ)りね」と斉明天皇に奉せられたのを、天皇を牟婁へ誘い出してその不在をねらい兵を挙げる策だったような書きぶりであるが、牟婁の温泉、すなわち現在の白浜、湯崎温泉の風光を正直に申上げたに外ならぬことは、ここの風景に接したものの誰しもが知るところで、正直なことであり策略とは思えない。蘇我ノ赤兄の指摘した三つの失政は紀にはそれより前にも書いているほどで、皇子が言い出したことでない。赤兄は天皇の失政を皇子に告げて謀反をすすめ、皇子が謀反を中止すると忽ち態度を変えて、その夜直ちに皇子の邸を囲み捕え、天皇の牟婁の所在所へ急使を派して速報し、皇子及び従者を押送した。赤兄がワナを作ってそれに陥れたような感じだ。しかも不思議なことは赤兄は謀反をすすめながら、この事件について何の咎めもうけなかったばかりか、天智天皇の世になると天皇に重用され、その女常陸媛を天皇に容れ、自らは左大臣となっている。どうもおかしい。水戸の大日本史は有間皇子を「性、黠猾」と猾の字を加えて紀をそのまま伝えているが、橘守部や飯田武郷は皇子に同情している。ここには述べて断じてどちらにもくみせぬが、有間皇子の岩代での詠、万葉集巻二の

有間皇子自傷ミテ結松枝歌二首

 磐白(いわしろ)の 浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む

 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る

は皇子の世にのこし唯二首の詠であるが、その哀音は千古に伝えて人々の涙をそそるのである。


参考文献 大和から牟婁への道

注、紀とは日本書紀

参考文献 白浜温泉史 白浜町 昭和36年4月5日発行