ムロの地名

 白浜温泉の湯崎地区は飛鳥、奈良の時代、すでに大和の朝廷に知られいた古い温泉であるが、そのころ牟婁温湯、紀ノ温湯と呼ばれ、又、武漏温泉とも書かれた(紀巻26、斉明、文武の条)、これはこの附近の現田辺市の周辺を牟婁ノ郷といい現白浜半島が抱く田辺湾を牟婁の江というたからで、白浜も牟婁郷の一部だったからである。ところで牟婁の名は何によったのだろう。

 牟婁ノ郷は田辺附近と富田川流域の一部に過ぎず、日置川流域以東は熊野ノ国であったが、大化の改新の時、熊野国を牟婁郡に併せて牟婁郡とした。その後明治維新の時まで牟婁郡で来たが紀伊7郡のうちで面積2分の1を占めるほど広く、明治にこれを東西南北の4郡に分け南北2郡を三重県に割いたのであるが、牟婁と称する地域は大化に拡げられたもので、もとは白浜地方の小さな区域に過ぎなかった。だから牟婁の名の起りは元の牟婁郷のうちに求めねばならない。

 牟婁、武漏のムロという名を、有漏無漏などの漢字にハメてこの源を求め仏教かなにかに関係があるのではないかと考える人もあるが、仏教渡来以前のものだとする説が有力だ。それは松岡静雄氏の「古語大辞典」によると、ムロは韓語でウム()と記され地室と同源の意味を持つとしている。ムロの源義は窖(コウ・あなぐち)であるということは上代の民が土を掘り下げて造る窖=ムロであり、その上に屋根を設けたたのが家であるという説で、初めはムロヤであったのが、ムロに約されたのだろうともいう。

 以上のムロの称呼の考えを前提として置いて、喜田博士の「ムロ温泉考」を読まれたら、牟婁という地名の出た所以が略ぼ明白となるだろう。

 古代そこに牟漏の温泉と呼ばれたものは、今も海中に突出た岩礁の突端に湧出する崎の湯で、それが一番早く世に知られたものであったとみる。それはムロの湯という名称が推測せられるのである。この崎の湯はその名の如く海中に突出た岩礁の突っ崎に凸所があって、そこに温泉が湧出て凸所がそのまま天然の浴槽をなしているのである。近頃は風紀問題から囲いを施したり海波の打ち込まないように障壁 を設けたりなどして、大いに天然の雅致をを損じた嫌いはあるが、それでもなおそれに浴すると、何とも云えぬ太古の気分が味わえるのである。而してそれわムロの湯と呼んだ理由が合点するのである。案ずるにムロとは洞穴を意味する。それが堅穴であっても横穴であっても、共にムロと呼んだらしい。神武天皇が御東征の際に、土賊が忍坂の大室屋に多人数いたという大室屋も日本武尊の熊襲征伐の際に、梟師が橋本の大室屋まで逃げて行ったと云うその室も、共に住居の堅穴の事であった。而して此温泉を湛えた岩礁上の堅穴は、又、当然ムロと呼ばれたもので、これあるがために此温泉がムロのイデユの名を得たものであろうと思われる。かくてムロの名が広くその地方に及んで、ここに設置せられた郡が牟婁郡と呼ばれ、その名が更に広く東の方熊野地方までも包含する事になったのである。

(上記昭和7年7月、雑誌旅と伝説所載、文学博士喜田貞吉「史的三名湯」の一部)

 この喜田博士の考説はは正しいものというていいと信ずる。往々この崎の湯は湯崎の西端に突出た磯端の大きな岩凸に、熱湯が湧き湛え、もうもうと温泉煙をあげていて、海上からも著しく認められ、それが遠方まで知られたのである。

注、ウムの文字(白い所)はリンクしていますのでご覧下さい。

参考文献 白浜温泉史 白浜町 昭和36年4月5日