牟漏温泉昭和7年2月 雑誌「旅と伝説」、

「史的三名湯」の牟漏温泉(湯崎、白濱温泉)の抄出 喜田貞吉

 牟漏の温泉は紀伊国西牟婁郡田辺町の近所にある。前二湯(有馬、道後)とは違って湧出量が豊富な上に、海岸にあるので又特殊の趣がある。今日では普通に鉛山、湯崎の名を以て呼ばれ、大阪から汽船の定期航路が開かれ、又紀勢鉄道西線の通ずることによって、京阪神地方の浴客には往復が非常に便利になった。湯口も有馬や道後の様にたゞ一箇所というのではなく、湯脈が広く通っていて、掘ればまだ所々から出るという。往時鑛坑を穿って其の湯脈に掘り当り、そこから温泉が湧き出して、為にマブの湯というのもある。マブとは如何にもいやな連想をさせる名の様ではあるが、古く鑛坑の事をさう云ったのだった。近頃は附近の海岸白砂の中に白浜温泉というのも出来ている。

 

 併し古代そこに牟漏の温泉と呼ばれたものは、今も海中に突出た岩礁の突端に湧出する崎の湯でそれが一番古く世に知られたものであった見る。それはムロの湯という名称から推測せられるのである。此の崎の湯は其の名の如く、海中に突出た岩礁の突崎に凹所があって、そこに温泉が湧出て凹所が其まゝ天然の浴槽をなしているのである。近頃は風紀問題から囲いを施したり海波の打ち込まぬ様に障壁を設けたりなどして、大いに天然の雅致を損した嫌はあるが、それでもなおそれに浴すると、何とも云えぬ太古の気分が味われるのである。而してそれをムロ湯と呼んだ理由が合点せられるのである。案ずるにムロとは洞穴を意味する。それが竪穴であっても、横穴であっても、共にムロと呼んだらしい。神武天皇東征の際に、土賊が忍坂の大室屋に多数いたという大室屋も、日本武尊の熊襲征伐の際に、梟師が室の橋本まで逃げて行ったと云う其室も、共に住居の竪穴の事であった。而して此温泉を湛えた岩礁上の竪穴は、亦当然ムロと呼ばれたもので、これあるが為に此の温泉がムロのイデ ユの名を得たものでおろうと思われる。かくてムロの名が広く其の地方に及んで、こゝに設置せられた郡が牟婁郡と呼ばれ、其の名が更に広く東の方熊野地方をまでも抱合することになったのであ ろう。

 

 此のムロの湯の名前の起源をなしたと思わるゝ天然の浴槽の因みに、余談ながら一寸書き添えて置きたいことがある。否むしろこれがある為にムロの温泉の事を思い付いたと云ってもよい程で、それは最近に自分が青森県南津軽郡山形村の山中で浴した、人工による岩窟の浴槽の事である。

 

 南津軽郡山形村は今では十和田湖に通ずる県道が開通して、乗合自動車までが定期に往復し、其の道筋には温湯(ぬるゆ)、板留、二庄内などの温泉があり、夏の頃は相当の浴客で賑わう地方となってはいるが、昔は浅瀬石川に沿うた極めての山間で、マタギと呼ばれる狩猟民や、蒔炭の供給に生活の資を求めた山子の部落が所々に散在するに過ぎなかったという様な、至って偏鄙な地方であった。其の二庄内から更に分れて山奥へ分け入る事十数丁に、もと僅かに六戸ばかりの大穴という部落があり、更に十数丁にして要目という僅かに五戸の部落があった。其の大穴部落は近年貯水池を設ける為に取り除かれて他に転じ、其の一戸は要目に移って今は要目部落六戸となっている。無論学校などもなく、此の部落の児童で小学教育を受けたのはたゞ二人きり、それも里に親類があって、それに子供を預けたていう便宜を有するもののみだという様な、昭和聖代の文化の恵みをまだ十分に受け得ない気の毒な地方である。従って住民は無論文字を解せぬものが多く、昔ながらのマタギの記号を木に刻しで、不自由ながらも用を便じているという状態である。ところで其の要目部落から二三丁ばかり離れて、浅瀬石川の支流二庄内川に沿うた川下に温泉が湧出している。もとは山崩れの為に埋没して、僅に温湯が土の間から滲み出ていたのを発見した人があって、二間ばかりも其の崩れた土を除いて見ると岩壁が露出し温泉は其の岩壁の割れ目から湧出していることがわかった。而も其の下方に、天然の岩石を掘って四尺に五尺位の湯槽を 造ってあるのである。此の湯槽が何時の時代に、如何なる人によって設けられたかは勿論明らかでないが、其の崩れ土の中から土製の煙管の雁首が発見せられた事を見ると、山が崩れてそれが埋没したのはいづれ煙草の輸入せられた後の事であるに相違ない。 勿論今日も之を利用する人がなく、自分の云った時には落葉や塵埃でひどく埋まっていたのを、綺麗に掃除して貰って一浴を露天に試みた事であった。

 此の温泉の事に就いては、他日更に附近の遺蹟其の他と総合して発表する予定であるから、こ ゝに詳細の紹介を保留するが、岩石を穿って所謂ムロを作り、それに温泉を湛えて浴を取るという事は、古代の人々に取って至極都合のよい事であったに相違ない。是も昨夏北海道に行った時、釧路山間クツチャク湖畔の和琴温泉に於いて、是も露天に岩石を以て泉水の池の様に湯槽を作り、折から土用の丑の日の定休日の事とて、附近の農家の男女老幼が、心よげに混浴しているのを見た。是も一種のムロである。箱根の底倉温泉の湯口に近い谷底に太閤風呂というのがある。太閤秀吉公小田原攻めの時に入浴したとの伝説ある遺蹟で、是も或る種の天然の岩窟であり、亦ムロというべきものであろう。

 

 更に案ずるに、風呂の話はもとムロと同根で、今もムロをフロと発音する地方が所々にある。有名な山城八瀬の○風呂も、もと所謂八瀬の黒木を蒸す○室の熱く焼いた所へ水を注ぎ、其れから起る水蒸気の中にひたって蒸される仕掛の蒸風呂である。今でも普通に風呂と湯とを同義に用いている様ではあろが、嘗ては明らかに別物で、風呂屋は蒸風呂の営業であり、湯屋は洗湯営業であった。而して其の蒸風呂という言葉は、実は室で蒸されるから起った名称で、フロ即ちムロなのであった。自分の郷里風呂の谷という所に、弘法大使のの風呂というのがある。 小さい横口式古墳の石室で、其の中で焚火して周壁の熟した所へ水を注ぎ、中に寝こるんで蒸されるのである。堅石と横穴と形は違うが、共に同じくムロで、紀伊のムロの温湯の義以て解すべきではなかろうか。

 

 尚序ながら書き添えて置く。紀伊の熊野地方の事は、すでに神武天皇東征伝説の中にも織込まれて古く知られた所であったが、事実は大和吉野の山地からかけて、一帯に久しく化外の地として遺されていたものであったらしい。かくて牟婁郡は此のムロの温泉地方を中心として、紀伊の最南に設置せられ、それが次第に南に、東に、東北にと進展して、もと吉野川筋なる吉野郡から進展した中部の山地は、すべて吉野郡に編入せられて大和に属し、それを取囲んで伊勢境までの海岸地方一帯が、漠然此の牟婁郡に編入せられたものであったと解せられる。

(注)、この牟婁のことについては碑文の有馬皇子の参考文献で「 額田王らの歌の舞台に」以下もご覧下さい

(注)、牟婁のことについての関連参考文献

(注)、現在文に修正したところもある。○は文字がありません。