白濱日記(昭和三年)  松瀬青々 

  昭和3年瀬戸鉛山村略図(製作中)   俳号による実名など(製作中)

  八月廿一日

注  解

 数日の荒も鎮まった、瀬戸から「けふ波なし来
い」という意味の電報が有ったので、午後、子
供等二人と和歌浦に出で牟婁丸というに乗船
す千六百余噸という、兼て春沙から書付をもら
うてあったのに、家を出る時に倉惶としてそれ
を忘れて出た、困ったが仕方もない、船は大入
で毛布を借ることも出来ない、何とか旅行団の
為の余興として喜劇のようなものが催された。

 この夜は奮七夕である、「海上七夕」という
ことも偶然この日に逢うたのだが.一種の緊張
を感じたのであった。

  七夕を神に申さん玉津嶋


  七夕や霞の橋を海の上、
  由良を出て乙棚機の迎へ舟
  七夕や月暮れかねて詠め頃
  七夕を妻に帰るやいさり舟
  天の川を海ゆく旅に見る夜かな
  鯵舟の灯やはながむる女棚機
 船は田邊に着いた、しばらく迎への人を尋ね
詫びたが、綱不知へ行く小船を物きく時.丁度
不動庵と南氏とが尋ね惑へるに出逢えた、その
小船に乗って揺れて行くこと半時間.會て知る
綱不知に着いた、家の人は提灯を持ち、待ち受
けられた。

 船虫這ふ地に提灯や宵の秋


 しばらくして自動車来る、或る辻に来て車を
下りると、ここには暖亭兄がまちうけられ案内
をえて定めの家に導かれた。

 此の家の下の磯に露天の温泉がある、先づ嬉
しくそれに浴す、夜は静かに外に浴みの人は無
かった。

  磯の湯の上はほがらに天の川
  出湯の音上にしづまる女棚機
  湯戻にけふはじめてや虫の聾

 

 

昭和二年八月一日、 大阪商船では那智丸、牟

婁丸(一、五〇〇屯)を交互に毎日 文里港に就

航開始。

倉惶= 

 

奮七夕=

 

 

 

 

 

 

乙棚機= 

 

 

 

鯵舟=アジ船     女棚機=

 

小船 物きく時= 

尋ね惑へる=尋ね回っている

會て知る=大正12年6月8日に来村してしっている  

 

 

 

 

或る辻=丸公園  

 

熊野三所神社前、白良浜の芝田勇蔵氏別荘

 

白良浜の「みのわの湯」

 

 

 

 

  八月廿二日

注  解

暁に磯の湯に浴した。此の湯は数日の荒れで海
の砂に埋もったのを我等の為めに諸君が砂を掻
き出してくれられたということであった、石で
囲うて有って湯は混々と流れ込み、それ丈け湯
槽から溢ふれ出ている、湯の湧き口は直ぐ傍で
ある。青天井の湯につかりて、清き入海を眺め
る向いは湯崎でついそこに見えている。
 けふは湯崎を見に行くことにした、暖亭兄が
案内である、或る家の前に籠に船虫を入れてあ
る、魚釣りの餌なのである、西洋婦人が釣竿を
求めて行った、以前の時には無かった稲荷湯と
いうのが出来ている、崎の湯まで見て引返した
漁師は小盥を密閉したやうなウキとノミとよぷ
鉈の小さいようなものを傍に置いて湯のうしろ
に休息していた、ノミは岩に付く鮑を離す道具
だという、しかし第一回に旨くはづさないと貝
殻だけチギレても身は岩を離れ無いさうである
ある漁師の桶にはイガミという魚が有った、黒
い鮒のような魚で赤い鮎々が口の端にある帰り
路に屋形の湯のそばを上って薬師堂に詣でた大


木の茂りの下で實に涼しい所であった。比の寺
の創始は思うに奈良京の時○、温泉の始りと違
はぬ時代から有るのだらう。正午宿に帰った、
今朝女の魚売が持って来ていた「タルミ」とい
う魚の馳走で、甚だ新鮮で旨かった。
 濱に舟が着いて、何人もの人が擔桶で浴槽か
ら温泉に汲み出し舟へ運んでいるが、湧き出る
のが豊だから一向にこたえない。船に湯が満つ
ると漕ぎ出してやや沖にいる元船へ叉運び入る
のである、兵庫とかゝら汲みに来ているのだと
いう。
 午後に南栄吉氏が一籠の貝を持参であった。
ボンポロ貝、シリ高などというのである。
外に蛸一疋、これも同氏が取られたのだとい
う。色々と海の咄を聞いた。イザリ火は昔は松
を焚いた、中頃ランプになって今はアセチリン
瓦斯でそれも自分自分競うて段々明るくすると
いうことだ。
このイザリ火の明るいを昨夜私は数々見た、
實に明るいものだ。
 夕暮湯槽の脇を通り右手の岩磯に納涼に出た
そこには小貝が澤山岩畳についている、子供等
はこれを拾うことに耽っていた。
  七夕はきのふに過て夕すゞみ
  磯ものを拾ひがてらの夕すゞみ
夜、梨をもらうた、梨栽培の咄を聞いた、農談
漁談子供等もおもしろがってきいた、磯に女の
人が咄していた.ウグという魚がいて針をもっ
ている.それが昨夜泳いでいたので海を逃げて
上ったと。

白良浜の「みのわの湯」

湯の湧き口=小澤湯(現在も跡が残っている)

 

 

 

籠=竹のかごで口にフナムシが逃げないようにしてある。

大正12年6月8日俳人松瀬青々来村。

昭和二年八月十五日、湯崎・稲成湯落成開業

盥=たらい (小さなたらいを密閉) 、「まげ」のこと

鉈=なた

鮑=あわび(トコブシ)

旨く=うまく 

イガミ=ブダイ

鮒=フナ

屋形の湯  薬師堂(注、附近略図もご覧下さい)

 

○=旧文字 文字なし

 

タルミ=フエダイ科(ヨコタルミ、ヒメフエダイなど)

擔桶=かつぎおけ

 

温泉に(原文)=温泉を

温泉汲みだしの記述は、「村の日記」追加した。

 

 

 

蛸一疋=タコいっぴき

咄=はなし

イザリ火=イサリ火

瓦斯=ガス 

 

 

澤山=沢山(たくさん)

耽=ふけっていた。(夢中でしょう)

 

 

 

ウグ=ゴンズイ

 咄=はなし

  八月廿三日

注  解

朝五時入浴、日の上るを拝む、鳶よき声で鳴く
遠き鷄御船山を隔てゝきこゆ。沓嶋を眺めて短
歌を詠ず
  よべとりし磯ものを見るけさの秋
磯ものとは磯に棲むしたゞみなど小貝のいろ
いろなり
  したゞみ見てこの寄居虫の咄しかな
  けさの秋朝飯に呼ぶ磯の上
  朝飯に磯もの取りを呼びにけり
  軒下や残暑にけさの松葉寄り
  にしくろめがさも交るや磯の秋
にし、くろめは貝の名、がさは寄居のこと也
  宿かりのころげありくや朝涼し
岡の宿かりというのがありて虫の色白しとい
う、これは水に栖まず陸上にて育つもの、飯粒
を輿えて飼いあくを得るという、傍に別の貝殻
をおくと.それに入りかわりなどするよし
  汲み来る潮に磯もの入れにけり
不動庵が手にて掬い潮に入れたるなり、船虫
を籠に入れたるを湯崎で見たが、それで(ぐれ)
を釣るのだという、(ぐれ)とは黒い鯛のやうな
魚という。
 御船山の茂りを入りゆく、熊野三所紳牡は今
普請の最中である、大工さんに開くとむかし天
子の御休みに成った石は社殿の下にあるという
船の形をしている石ということである。
そこをぬけて瀬戸の磯に出る、子供は貝を拾
う、磯と濱とを幾めぐりして貝を拾い小石を拾
う、我は波を写す、波のさばけおもしろし、或
磯にて平石の斜なるに苔あり、滑りて三人が転
ぶ、危きような裂け目、険しき石を渉って、臨
海研究所の濱に着く、朱い瓦屋根が見える、こ
ゝには草の間に濱木綿が叢生している、花は過
ぎて傘状をして實をつけている、臨海研究所所
に入り水漕の魚やら貝殻などを見た。
鸚鵡貝を見た、鸚鵡の杯ということ唐詩でみ
て懐かくしく思うていたので、ことに嬉しかっ
た、磯巾着の幾種類を見た、番所の鼻をめぐり
反対の道から帰るつもりで磯を幾廻りしたが磯
と渓とがつゞくだけで内へ入り込む路が見当ら
ない、一人漁者が沖の石上で釣っていたが、も
のをきくにも声がとゞきさうにない、外には一
人も蓬わなかった、それでも小石を拾い小貝殻
を拾うて進んだが、いつまで行っても磯山下の
湾曲を辿るばかり、円月嶋を見て過ぎ塔嶋を見
て過ぎ、天井の剥げ落ちそうな石門を潜ったが
只寂々として海中の磯に波が激する計りであっ
た、案内者なくして来しことを悔たが仕方がな
い、あと戻りに決して戻った.これも大分路を
戻らぬばならぬ太綱のわがねて置いてあるのは
網の綱らしかった、漁具のあるを見ても家の近
きを知れど、それでも人を見ず里に入る小徑も
ない、大分にもどって来て一つの徑に入らせて
見れば道の通ずるをいう、上って行けば、臨梅
研究所の裏手に出た、遥かに大廻りをせねば戻
れぬものと思うていた臨海研究所に夢のように
戻ったのだから喜びは限り無いものだった、労
れているし、渇しているし、家の戸によって水
を乞うた所、快く水を与えられた、三人が有難
さに満ちて水を飲んだ、元気づいてゆるゆると
奮路を帰ったのである。宿に帰ると伏見尺角兄
よりの電報にて滞在日程問合せあり、けふ不在
中に田邊の棣園、浪江両氏来訪ありしをきく。
海に浴し湯に入り、夕飯を済せて庭の松蔭の床
に休息している、田邊の銀濤氏来訪、棣園氏来
訪の意を悉にす。多分廿五日に往訪すべきを私
は話した。不動庵兄と遅くまで涼みながら話し
た。

鳶=トビ  地方名=トンビ

鷄=ニワトリ

沓嶋大島{通称、靴(クツ)島}

(す)む したゞみ

したゞみ=小さな巻貝で、ニシキウズガイ科を総称 

 

 

 

にし=ニシン、くろめ=クロベ

 

岡の宿かり=「岡宿借」(おかやどかり)

 

栖まず=すまず   輿=あたえ

 

 

掬=すくい  船虫=フナムシ

籠=かご

ぐれ=メジナ

熊野三所神社は、六月十七日より拝殿を新築することになる。

御船山  六五八年、斉明天皇行幸  

御腰掛石

(注、斉明天皇行幸、御腰掛石は、熊野三所神社のリンク)

(注、御船山などは。斉明天皇遺跡碑にリンクしています)

 

 

 

渉って=わたって

叢生=

實=み(実)

 

鸚鵡貝=オオムガイ

磯巾着=イソギンチャク

 

 

 

 

 

 

あわ湊の石門か、北浦の石門か不明

悔たが=くいたが(反省)

 

太綱のわがねて=ふとい綱を輪にしていること

小徑=小道

臨梅研究所

 

 

遥か=はるか

 

 

 

 

 

けふ=今日

悉にす=ゆだねる・まかせるの意

 

 

 八月廿四日

 

晏眠、西漁舟より一籠の魚を貰う、鯛三尾、た
るみ一、剣烏賊一。
 南栄吉、暖亭両氏案内にて千畳敷を見に行く
  月草にかやつり草や山の露
 山のわかりにくき道を辿って山を下り上りし
て千畳敷に着く、海岸の地岩の大に露出したる
ものなり、ひろき斜面の不規則なるが幾つも重
畳してあるなり、海を望むに遮るものなし、ひ
ろき眺めなり、前の礁上に釣する人あり、つな
がれた小船は泛々としている、大畳岩の凹みに
釣する数人あり。
 大小の船は時々に通えるなり.北には幽かに
日の岬.切目の崎見ゆ、鹿島の茂りやや濃く見
ゆ、茶店が二軒ある、家はワイヤで張って風に
飛ばされぬ用意がしてある。
  阿波ぞとはいへど海のみ初あらし
  早稲の香に山の細道湯に帰る
  鄙なるや住めるたつきの豆茶畑
  路くゞる茂りの中のとんぼかな
小学校近くの畠に娘さんが茄子をちぎってい
た。
学校の庭、松の根に「行幸芝」とした石が立っ
ている、むかし都よりここの温泉に行幸のあっ
た時に御休息の遺跡と見える。ここは只の鄙で
はなくて早くより書冊にあらはれたる所である
  行幸の芝をたづねれば茄子とりいたり
  初秋の行幸の芝に涼みけり
  茄子とる人声もして秋の空
  たゞに鳴く山のつくつくぼうし哉
  湯 崎
  湯の町に或は干しあり胡麻の束
 白良の宿に帰りつき.海に浴し、温泉に浴す
 午後.貝寺を見に行く。瀬戸の濱の岩畳の裂
け目は十六萬年以前のもので日本に三ヶ所ある
という話である。
  菰きせて漁村の井戸や晒したる
 貝寺は本覚寺が本名である、いろいろと珍ら
しくうつくしき貝を見せて貰たう、色といひ、
光澤といひ、図案的なる点といひ、貝は造化の
巧を極めたものである、色数が多くて一々記す
ることもできぬ。
  貝を見る庭初秋の百日紅
  寺残暑しづかに貝の錦かな
 安達藤九郎の社というが左手の山裾にある、
ここの漁者たちの霊験を願う神であるという、
江津良の濱に出て小貝を拾う、貝がら半分の砂
上に寝ころぴて仔細にいろいろの貝を眺めると
筋やら斑点の美しさ天工の微が窺えるような心
持がする。
この濱に鈴虫が啼いている。
  鈴虫をきけば秋なり夕間暮
  鈴虫に濱の佗しき知られけり
  鈴虫の巳れ淋しく濱の暮
  濱人はきかず鈴虫暮んとす
  鈴虫やほの夕雲に月のある
  秋の雲かきさがしたり濱の暮
  おしろいの花を見る暮の江津良濱
  おしろひの花紅し船あげてある
  鈴虫なく江津良のはまを戻りけり
  黍ぬけろ暮のとんぼや濱もどり
畠道を江津良より瀬戸に帰える、豆茶の葉は
合歓のようにすぼみ、黄なる小花がついている
  瀬戸なるや秋の日くれの豆茶畑
 このあたり山裾には自然生えの馬目の木が澤
山にある、風情熊野と同じきを思う。此衣、新
聞にて天理研究会の事を見る、無知と淫祠は昔
から付きものである。
 今の世は宗教的には甚しき無知であるから。
どんな妄誕も容易く這入るのである.臨済禪師
のいはゆる「人を惑受けない」ということが必要
なので、神の惑はしも受けず、人の惑はしも受
けない底の人でなければ、本当に宗教的に人を
化してゆくことは出来はせぬ、近時の卑俗な所
謂宗教なるものは、その指導の中心に立つもの
が他の惑はしを受ける程度の人間で、随って其
人の行うことは唯人を惑はすことのみである、
それらの人は他から感はされて、それを疑は無
いのを(信)だと思うている他の惑はしを受けて
疑がはないのは智が足らないので即ち馬鹿なの
で(信)ではない、他から惑はされる程度の人間
に本当の(信)は有り得ないのである。宗教を聞
くのならば人惑を受けない所まで仕上げた人の
言葉を聞かねばならぬ、屑々たるマヤカシ者の
所謂生神様などいうものはいつの世にも有るが
固よりいうにも足らないものである。

晏眠=安眠(あんみん)

剣烏賊=調査中

 

辿って=まわって

当時は、湯崎から千畳敷まて車道なし。

 

遮る=へだてる

 

泛々=ゆらゆら

 

幽かに=はるかに

 

 

 

 

 

鄙なる=ヒ・ひな

 

茄子=なす

 

「行幸芝」

行幸 六五八年、斉明天皇

    六九〇年、持統天皇

    七〇一年、文武・持統天皇

茄子=なす

 

 

 

 

胡麻=ごま

 

貝寺

十六萬年以前

 

菰き=コク・まこも(こもと思う)

 

 

 

 

 

百日紅=サルスベリ

 

安達藤九郎の社

 

 

仔細=しさい

窺える=うかがえる

 

 

 

 

 

 

 

 

おしろいの花=オシロイバナ

 

 

黍ぬけろ=ショ・きび

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月廿五日

 

午前五時、起きると湯に入った、眺めると崎の
湯の手前の家にだけ薄く朝日が匂ふている、朝
の涼しさ譬うべくもなく爽かだ。
  崎の湯に先づ日はさしつけさの秋
  遊船の一葉かろしけさの秋
  湯に居りてすゞむ思ひやけさの秋
  しづしづと日は松中にけさの秋
  濱草の一むらに日やけさの秋
  遠白くうするゝ雲やけさの秋
  旅人の湯入り一むれけさの秋
宿にかへりて皆と朝餉に坐る。
  黒き蚊のとんでくるなりけさの秋
尺角の室品女の令妹見舞わる.肴寵にコロ一尾
大きな赤螺一つ、梨數顆。
 けふは田邊へゆく約束で不軌庵、暖亭同行五
人づれにて出掛くる、網不知から乗船して入海
を馳せた、畑鴫を左に見て通った、こゝには漣
の痕化石したものがあるという、右に神嶋の茂
りを見る、こゝの原始林にはめづらしき植物が
あるという、小さき岩礁の一つに島が澤山集っ
ていた、文里濱をはるかにながめて船は田邊に
走る。細野行の巡航船というに出逢った、曾て
泊った五明楼を海から眺めた、田邊に着くと、
棣園、銀濤の諸氏待ち受けられていた。
銀濤氏の居(ねじ庄)に小憩し車に駕して奇然峡
見物に出掛けた、向いの家の庭に濱木綿の花の 咲きのこるを見た。田邊の町の景色、数年前に 来た時と同じで一種久濶の懐かしさがある。
  魚売も出い残暑の町景色
野に出る
  西瓜畑葉少なにして暑さかな
寄絶峡の谿谷には大石が谿中に転がり.両山総
て岩石にて生えたる木の翠濃く、這ひ纏ふ葛も
勢よく所を得顔に茂り合うている、大石を蹴り
返したという仙人の大きな足痕がその石に付い
ている、それは足形に似たものが岩面に剥げ取
れているのである。
  山中や残暑きぴしき牛蒡畑
  葛の花折り見て瀧見にのぼりけり
  一つ葉にしぶく瀧見の不動堂
  瀧の音に蝉の交じりて晝すゞみ
  木こくの一鉢きよし山のつと
  谷宿の芙蓉さかりの華やかさ
 村路
  蓮の田にへだてゝさくやかきつばた
 一たび田邊の町にもどり橋を渡りて和佐大八
の弓ある寺を見て上流に上り、この川に注いで
いる稲荷川の谷を上り蟾岩を見に行く、谷側の
壁を為す巨岩の上頭が宛として蟾の形を成して
いるのである、眼はそのまゝに備って居り、よ
く見ると鼻の穴まで有るようで踞したるその姿
の髣髴たる、裙はむら生え草に没して石壁の體
につゞいているのである、佇止多時、皆が仰望
を久くした。
  青空に蟾のもたぐる涼しさよ
  蟇岩の気や初秋のうすれ雲
  蟇主は彼虚に在りて雲の峰
 これにづゞく渓側に山なす巨岩の突兀を眺め
て進む、此の風光尋常でなく.中々に不可得の
ものである。岩屋山の観音堂に登る。石階百級
残暑の汗を滴らす。
  のぼり添ふしばし凉しき竹の蔭
  いまだしき閼伽井の萩の残暑かな
  雲近し山のつくつくぼうしかな
  蟇岩を余所に假寝や簟
  北宗の筆のあらばや岩の秋
  暑し暑し登りの竹に晝すゞみ
 寺座敷に晝餐をすませて肘枕に一睡した、さ
めて一浴、下山した。
  田邊のねじ庄に小憩、古谷石の幾つかを見た
一箇を輿へらる。
 田邊桟橋にて
  繭荷出す香に初秋のうら淋し
小舟にて綱不知へ帰る、江上の遠望に帆檣林立
せるは江川で秋の鰹舟の集りであるという。
  秋の江の一かたまりや鰹舟
  舟溜り見るに旅情や浦の秋
 鋼不知に着く時、暮鵜の向にたつを見る、鹿
島に栖めるなりという。
  十日月鹿島からすの帰りかな
  夕月に浦の稲穂の匂ふなり
綱不知より歩して帰る、路に古谷石の店を見
る、尺角の来るを開く。
帰りて、我のみ一浴す、夕飯さしみ旨し、一眠
の後なほねぶく、起て吉春と五丁を打つこと二
回、挟み将棋をさす半にて電灯消ゆ、湾の向い
に見る湯崎の宿々のも皆消ゆ、十一日の月海に
キラキラとして其下に数百の漁火殊にあかるく
見ゆ。
 晝尺角来る、磯邊の浴槽にともにー浴す。
こゝは尺角の親戚多ければ来徒しげく、殆ど
故郷の感あるべし、此夜尺学、南氏に行く。
  湯もどりの路松虫に夜の草
  里人の湯入り松虫鳴てゐる
  裸湯の人声きこゆ草の月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝餉=ショウ・かれいい(あさしょくの意か)

 

肴寵=さかなかご

螺=ラ・にな 赤螺=調査中

 

畑鴫=畠島(はたけじま)

漣の痕化石

 

 

 


曾て泊った五明楼=大正12年iに泊まった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帆檣林立=ほばしらりんりつ

 

 

 

 

 

 

 

歩して=ほして(歩いて)

 

 

五丁=囲碁のことか、五目ならべか

 

 

 

 

 

 

尺学=尺角の誤りか

 

 

 

 八月廿六日

 

  あながちに秋となけれど日の涼し
  松虫の夜はあけにけり日の涼し
  湯に入るにどこやら秋の日の涼し
  湯の石に身ぬれてあるに日の凉
口の凉しということ、季題秋季としてよろしか
るべきか、勿論(新涼)のうちの別題なり
 晝前に尺角来り、湯にゆく、我も行く.男の
子が釣り桶に入れた流れ子五つ六つとガシラ一
尾とを尺角が求めた、男の子はそれを一つの網
の袋に入れて温泉の石の上においた、我は水に 入ればゝおよぐかときく、生きているという、
桶に水を汲ませて魚を入れさせた、魚は泳いて
いる、男の子にそれを宿に持たせてやった。
  石におくがしらにあたる日の涼し
  生きていてがしらしづかや秋の風
  磯桶のがしらにくます秋の潮
  秋の雲がしらの形りにうかびけり
こゝにガシラというは大阪にてメバルという
魚らしい、形に色に一寸茶味のある魚である。
漁舟来訪、いろいろと漁の咄をきく、海に沈
めて釣する縄のことを語るに(はへ込む)という
詞がある″ウこれを(縄はへ)と語る.これ等の
詞をきいて私は古き歌を聴いているような心持
がした、いにLへの詞がそのまゝに残っている
實に懐かしいことだと思うた.古事記の歌に
「たく縄の千尋縄うちはへつりする海人の」と
ある、日夜を海に親しみ魚に親しむ漁人の原始
的なる生活、それなればこそこのむかしの詞が
今に伝わり使はれてゐいのである。(縄はへ)と
いい(はへ込む)という、何と優なる詞ではない
○。
けふば綱不知から鱚釣りに行くのであるが、魚舟に伴って、浦のけしきを見る。綱不知なる尺角の姻家の案内にて小舟が用 意せられて釣りに出る漁舟は都合ありて帰る、 故お品さんの令妹が子息に櫓を押させて浦に出る、尺角と我等三人と合せて客四人、あちこち 釣を垂れたが余計には釣れ無かった、やがて舟主が別の小舟で漕ぎ付け、暫くあちこちに舟を 廻して遊覧した。江山の景、塵○に遠き思い、 しづかにして鄙びよろしく、曲浦の数、島々磯 々の趣、大海の水入ればその様雄大に、魚介に 富みて幾浦人がこれに生活を得ているのである 此あたりは鍋を焚きつけておいて、おかずを取 りに行くという。
 舟を磯につけて、手玉網に入れて舳におかれ
たタルミをあるじが料理して、麦酒の栓をぬく
これも沖膾のたぐいなるべし、ガサメの煮たる
も携えられ、磯に座して陶然たり、こゝはハン ダイの磯と呼ぶよしなり
 綱不知乗船の時.白髪の老人、船装いなど色
々世話せらる。
  秋の舟に片手にたるみ摘み立つ
 浦の名は綱不知、垣谷、立ケ谷、寒さ浦.大
浦、その他幾多の浦あるべし。
  残暑の舟にいづくと眺む寒さ浦
 去年この海に鯨が二匹来て捕られた.先頃鮪
が来た三十貫位の鮪だつたという。五貫六貫の
小さき鮪は魚群が多いが大きのになると魚群が
少い、鰹もこゝに来たという。
 母につれて乗って来た男の子今年四歳至って
達者さうである。
魚をイヲという。
のである。舟を付る下の水中には五六寸もある
針を持った大きな雲丹貝が無数にいた。
やゝ時が移って、町邊の濱の灯の一列が正面
に見える、月の面にあかるさを増して来た。
  沖膾日のくれ月のあかるきに
  浦の月こぎ戻る舟に五六人
 けふは二百十日の前七日だという。
  秋の暮海はしづかにもどり舟
  月は上に舟戻し来つ宵の秋
 綱不知に戻って浦島という宿に小憩をした。
  小休みをするに移るや宵の月
  門の江や草にわたりし月を見る
 こゝの浅橋には田邊通いの巡航船をまつ人達
が疎らに集まっていた。
  浦の月舟待客も憩ひ居る
 尺角の誂えで、麦味噌であえた背ごし膾、が
ざめ汁など、こゝの風味のもので夕飯の御馳走
になった。
 むかし尺角の教へ子であった海壷君というが
海の生物などに詳しいので、招いてその話をき
いた、十五尋位の海底にいる(猩々宿かり)の話
貝の話、海藻の話、我からが一寸蟷螂に似てい
るという話、漣痕石の話、七十萬年以前の地層
で出来た大断層の話、鯨二匹の化石の話などを きいた。
 階老同穴の話も有った、夫は雌雄二匹の海老
が袋の中に棲息して生涯外に出無い、而して生
んだ卵は袋の上部にある穴から外に送り出すのであるという奇なる生活もあるものだと思うた
  けふの舟主喜代さくも来ていろいろと話が有っ た、雲丹にさゝれた痛みは潮がかわらねば癒ら ぬ、たゞし、その貝を殺しておくと痛まぬ由、
それはその雲丹を活かしておくとその針を働か
すたびに、此方の疵が痛むのだらうという話。
  がざめ汁させて旅情やけふの秋
  天の川うつる百千の入江かな

 

 

 

 

 

 

晝前=昼前

流れ子=メガイアワビ  ガシラ=カサゴ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詞=シ・ジ(ことば)

 

 

 

 

 

 

 

○=旧文字、調査中

鱚=キス

 

 

 

櫓=ろ

 

 

 

○=旧文字、調査中

江山の景=地域の景色

曲浦=浦、当時は地区や地域のこと

幾浦人=多くの地域人々のこと

 

 

舳=とも、へさき

麦酒=ピール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和二年一月三日、綱不知湾内で鯨三頭生捕る(村の日記)

昭和二年六月四日、立ヶ谷湾で午頭鯨四頭生捕る(村の日記)

鮪=マグロ・シビ

鰹=カツオ

 

 

 

 

雲丹貝=雲丹(くに)貝(カンガセと思われる)

 

 

 

 

二百十日=一年のうちで台風が来ると予想される日のこと

 

 

浦島=昭和二年六月一日開業

 

 

 

 

 

誂え=あつらえ

背ごし膾=せごしなます

がざめ汁=ワタリガニ汁

 

猩々宿かり=

 

蟷螂=とうろう(カマキリ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 がざめ汁=ワタリガニ汁

 

 八月廿七日

 

 昨夜磯波の音高し
 朝、不動庵を呼び天候のことを聞く、満月の
替りめ、盆の十六、七日はいつも荒れる、それ
迄はよろしからうということであった、私には
廿九日に大阪の或る旬会があるので帰期迫り天
候が気にかゝるのであった。
昨日の鱚つりの話から魚のことを語る、てり
込むと魚がくわぬ、しめりが無ければくはぬと
いう。
(がLら)を画帖に描く、一色紅葉をまじへ褐色
の班あり
 けふは古き地震の断層.鯨の化石など梅壷君
の案内で見に行くのである、綱不知に行く、浦
島の横広場に揚げ舟に鎖をくゝり付けて猿が飼
うてある。
  浦の猿秋に成りゆく夜露かな
 尺角、故奮の方より出て来り共に小舟に乗る
魚を囲うておく生簀がやゝ斜に成り浮いている
こゝの暮らしも思はれる。
  秋来たる浦の生簀もたつきかな
 田邊湾の中には八百八島あるということであ
る。
  初秋の舟してあそぶ魚の寄り
  くまぐもに霧の八百八島かな
舟主、一間ばかりの柄のヒシ(ヤスのこと)を持
ち海に入る、しばらくして大きな針河豚を突き
ふなばたに持ちあげた、河豚は怒って河豚提灯
のようにふくれている。徑尺位もあろう、から
だに此して余りに大きな眼を持っている、ヒシ
は河豚の脇鰭の内を刺している、針ふぐのから
だ中に一寸程隔てゝある針は皆立っていた、舟
の人が手伝うてそのふくれて重たくなっている
大ふぐを舟に上げた。
 船は叉漕ぎ廻った、海の口に塔烏が見えてい
る.男の子はヒシ持って這人らか、ノミもつて
這入ろかと間うている、舟主は「こゝが一番お
とろしい所」という、それはからだに触れゝば
直ぐに疵つく毒海藻の生えている所なのであ
る。而して這人って鮑を探った、数個を持ち上
げて来た、海港を出るとフムンと鼻息を吐く。
 舟主は一寸やちれて来た、触れた横腹が一寸
赤くなっててた、長い白い海藻がおそろしいの
だという。子息も海壷も海に這入った。
漣痕岩のある磯に漕いだ.こゝの磯鼻の石は丁
度倪雲林のよく描ける折帯皴の石である。
  元鎭に逢ひしこゝちや水の秋
漣痕とは小波のあとが残りしまゝ沙岩になった
石で磯の壁に其層が有るのである
  磯鵯のふなむし追ふに晝すヾみ
 磯の上空で烏が鳶に迫って、蔦は逃げ廻って
いた、舟の一人曰く、蔦はもと白かったのだが
烏に染めて貰うて今の色になった、その染め賃
をもて来いというて、烏が鳶を追はへるのだと
  桶の尻という所は昔の水門で内は後○田に
なっいる、この入海にむかし入って来た鯨が
迂回して一方の水門から出ようとしたが狭くて
からだが通らない、それで二匹ともこゝに留り
化石になったのだという、水口の南側に就て鯨
の丈けに盛り上っていたものであらうが時代の
たつまゝ上に別のいがいがの鑛糞のやうな貝の
化石のまじつた沙岩が出来、叉鯨の骨の化石も
損せられてこれだと教へられなければ私等の素
人には分らないものになっている、よく見る鯨
の肋骨はある、幾萬年の物かは知らぬが、江山
は久しく年を経たものだと思われる。
 磯伝いを歩くと紫の色よき桔梗が木草茂りの
中に咲くていた、余りの美しさに新たなる警異
を感じる。
地震の断層ある磯を見た、方向は東より少し
北へかゝっている、巾は六間も割れていた、其
の中間は地の底からふき出た黒い泥土のかたま りのようなもので塞がれている、これが海を通
り出崎一つ向うの磯につゞいているのだという
  初あらし蟹のもぬけを拾ひけり
  桔梗もち磯の木蔭にすゞみよる
  化石成す時劫はるかや秋の空
 けふは實に暑かった、僅かに磯のへりの木か
げある所にひそみよって凌いだのであった、舟
を戻して綱不知に上った
 浦島館
  浦風やしろ朝顔に舟がくる
わが仮屋沙草亭に帰って晝飯した
 午後はひどく風だって来た、晝寝してのち
夕には大分に凪で来た、磯の湯に一浴す、上り
くれば尺角.漁舟語りいる所なり。
 このタこゝの同人を集めての旬会である、伏
見の待柚、同子息、逸朱.ばからすこゝに来る
自動車にて陸路を来りしなり。
 会する者、不動庵.漁舟、暖亭、待柚、過朱
尺角、百合女、余となり、拙句を録す。
  紅にそめしとんぼの草遊び
  見つけては桔梗をりけり磯歩き
  天さがる鄙の有磯の桔梗かな
  桔梗折り小船で波を戻りけり
  野の露の厨つり草を引き来きたり
  青味噌にせごし膾はこゝのもの
 綱不知
  朝顔に宿屋していつ鄙のさま
  初秋や遊びに来る小船つき
第二回作句、待柚であった○.庭の床几にて刺
されたのである
  夜涼みの足を蜈蚣にさゝれけり
  五六日なじみになりて月見かな
  はつ栗をうでゝ出されし紀の路かな
  七夕を過たる月や馬日原
 湯崎滞留の人等を思うて
  沖の月眺めて宿屋泊りかな
この日の雑句を迫記す。
  この庭に初あうしゝて松葉寄り
漁舟は夜毎を沖に暮していて虫きくは今宵が初
であるという、漁舟叉云う、いつも沖箱に柑子
の種を入れておく、オコゼなどにさゝれた時に
それをかみて付ければ癒る由
  沖ぐらしの君まつけふや虫の宿
  押箱の名もわびてあり水の秋
 桔梗を詠す
  いそ蔭に女のやうな桔梗かな
  濱風の種のこぼれて桔梗かな
 浦島館にて船主持参の魚
  笹にさすがしら鷹の羽風の秋
 沙 草 亭
  松虫をきゝそめてより五六日
  松虫をきく初秋の八日の夜
  翌はたつ夜の走り場の月見かな
  七夕をすぎての月のふくれかな
  七夕に着きしより見る夜々の月
  松虫をともしくきゝし裏の沙
  翌はたつ貝荷造りやよひの秋
 句会果てゝから数人はあとに残り、戸棚を捜
し酒壜を取り出もて、何くれと互に語り出でた
やが鶏鳴をきく頃まで起ている。

 

 

 

 

 

鱚=キス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生簀=いけす

 

 

八百八島=大小の島が多いこと

 

 

 

 

針河豚=ハリフグ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毒海藻

 

 

 

 

 

 

倪雲林=中国の人名

 

 

 

磯鵯=いさひよどり

 

 

 

 

桶の尻=調査したが場所不明

○田=塩田 

 

 

 

 

 

 

 

 

江山=この地方 

 

 

 

 

地震の断層ある磯を見た=調査 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○=旧文字 

 

蜈蚣= 

 

 

 

 

 

 

 

 

柑子= 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沙草亭=白良浜の芝田勇蔵氏の別荘 

 

 

 

 

 

 

 

酒壜=さけびん

鶏鳴=にわとりなく

 八月廿八日 記載なし

 

 八月廿九日

 

 瀬戸へ一寸出かけて.その後から権現の鼻を
磯伝いにもどって来た尖った岩の頂に磯鵯が止
っていて、そばに行くまで動か無い、沙岩の崩
れが危げに落ち重って、踏み行くも容易でない
下に廻り、上に廻り、岩間岩角の踏得るところ
を尋ねてボツボツと辿った、大きな岩の陰の暗
みからやゝ大きな黒い羽根の黄なロばしと見え
た鳥が驚いて羽ばたきをして飛んで出た、鵜で
あった○、たしかめる間もなく飛び去った。
 諸子の助力で荷物拵へも出来た、けふ立つ旅
心勿々として落ちつかぬ。
 この度の遊び、宿所は芝田氏の別墅を借り呉
れられ、布園のしっらへ及ぶ炊事の計らい不動
庵、主として是に当り、市野女というが煮焚の
世話をせられた。
 謝不動庵
  うれしさは四五人前の夏布囲
 晝餐をもらい,果物を貰うたこと
は一々に記さず。
 けふの晝餐は南氏からの馳走で、色々と魚を
集め料理をして呉れた。
 けふ私共は立つが待柚、逸未達はまだ四五日
滞留の筈である。
 近付になった人々は網不知の桟橋に送って出
られた、俳句を作る数子は文里湾まで同乗して
見送られた、汽船の発する迄の少しの間を生簀
料理の生け魚を見物したりした。
 田邊の棣園老、銀濤子にも色々お世話になっ

 船は日の御岬を越すまでは少しくゆれたが、
それでも平穏であった、そこを越してから畳の
上よりも居心地がよかった、尺角子も和歌浦上
りをして南海線をつき合はれた、羽衣で別れて
私等三人は帰庵した。
 百合子を作りたる数旬
 を書かせ、こゝに付す。
  磯鵯とぶ磯の初秋、すがすがと
  湯の匂ひそこらあたりに今朝の秋
  湯もどりの手拭を干す今朝の秋
  磯の湯に下り行くあたり草の露
 臨海研究所の鼻を向いにいく
 つも磯をくりゞて
  くれんとす夕月の磯に秋の風
  初秋の日暮の色や江津良濱
  砂に坐し拾ふ小貝に秋の風
  見拾ひさげて居るに虫の声
 江津良を戻るとき
  濱に入りし畠に萩の花
 はんだいの磯にて
  船つけて魚の料理や磯の月
  仮り居七日野分の濱のひっそりと
  しばらくの名残り磯湯の秋の風
 白良沙草亭
  庭掃いて帰り仕度や秋の風

 

 

 

 

 

 

 

 

○=

 

 

別墅=別荘

 

布園のしっらへ=蒲団の支度

煮焚=煮炊(にたき)

 

 

晝餐=昼飯

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はんだいの磯=古賀浦の羽衣・飯台 

 

仮り居=芝田勇蔵氏の別荘

 

白良沙草亭=芝田勇蔵氏の別荘

 

 注、旧仮名は、なるべく現在文に修正した。
 注、旧漢字は、当用漢字に一部修正した。
 注、文中で日記の意を損なわない範囲で修正した。