常喜院別院                        Photo/2005-10-26

 所在地 御幸通り一一二七番地
 本 堂 拝殿・庫裡二棟
 境内地 およそ九〇〇坪。
 寺 宝 @弁財天像、A大聖歓喜天像、B大虚空蔵菩薩など
 もと明見寺といい、和歌山中之島にあったもので、『紀伊続風土記』 名草郡中野島村の同寺(真言宗古義京都勧修寺末)の項に、
 旧は市小路(いしようじ)村の廃寺なり、享保中此地に移し、宝暦中勧修寺末となる云々。
とあり、これを裏づけるかのように、現参道の入口に享保六年(一七二一)十二月に建立された石造の大宝筐印塔がある。大正十四年(一九二五)現在地に再建する際に、本尊薬師瑠璃光如来(右脇檀弘法大師、左脇檀不動明王)などとともに移転されたものである。
 幕末から明治にかけての約五十年間の消息はなんらの記録も残されていないので全く不明であるが、明治の末年高野山常書院住職中僧正大乗大円が兼務住職となり、留守居僧を置いて管理に当たらせた。たまたま大乗大円が白浜温泉自動車株式会社社長小竹岩楠と懇意の間柄であり、かつ篤信者滝正子の積極的な援助を得て眺望のよい現在地に移転新築されたもので、第一庫裡の天井裏に現存する棟札に、大正十三年七月二十日上棟式を執行したことが明記されている。
 このような関係により戦後宗教法人法が施行せられ、新法による登記の際、真言宗山階(やましな)派所属を離脱し、高野山真言宗に所属し、常喜院別院とした。
ちなみに明見寺は昭和初期紅はこの弁財天像を本尊として「白浜弁財天」の名のもとに喧伝せられた。開基大乗大円は昭和十四年(一九三九)四月八日に示寂したが、同十六年(一九四一)十二月一日加藤顕雄が住職となり現在に至っている。

    高野山常喜院住職中僧正大乗大円作            Photo/2005-10-27

 参道 

 小竹岩楠翁の碑 宝筐印塔 常喜院 別院の地蔵

 境内

 小竹岩楠翁銅像銘

 常喜院別院の大地蔵  いのふけひる地蔵  しらしま堀切地蔵  六十六部地蔵