湯崎温泉碑 |
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海内(日本の国のこと)の温泉あげて数ふべからず。 その最も古より顕はるゝ者は予の熱田津(伊予のニギタヅ即ち今の道後温泉)摂津(兵庫県)の有馬、紀(和歌山県)の牟婁(白浜)より先なるはなし。牟婁の温泉頗る多し。 名有るものニあり。白く湯崎、白く湯の峯、古史の記す所は乏く紀の温泉と言いて其の地をさゝず。ゆえに世或いはこれを疑ふ。 書紀(日本書記)に斎名天皇の四(658)年冬十月帝、紀の温湯に幸(行幸)すると。これより先、有馬王子来てリ牟婁の温湯に浴し、帰り奏(奏上)して曰く。「この地は勝境(すばらしい)なりわづかに(僅のあいだでも)其の境(地)にわたるも病おのづからケン消す(治る)」と。 帝之を聞き南巡の決意せり。帝の幸(行幸)するや皇太子(中大兄皇子)も亦従ふ。これ即ち天智帝なり。又書記に持統天皇四(690)年九月天皇紀伊に幸(行幸)すと。又続紀(続日本紀)に文武天皇の大宝元(701)年九月、太上天皇紀伊国に幸し、冬十月車駕で牟漏温泉に至る。けだしこの時ニ聖相ともにこゝに幸せられたれば、則ち持統帝は乃ち前と併せて両回(二度)なり。 萬葉集の載(記載)する所も亦以て徴するに足らん。(ただすに及ばない) 然れば則ちこの地温泉の美と海獄の勝(すぐれている)と、古より称せらるゝ所のもの、それ将に何んぞ疑はん。今村中相伝へて「御船谷」「御幸芝」と称するものは乃ち臨幸の遺蹤(古にありたることがらのあと)なりと云ふ。けだし、この地はエイ海(大海)の中に横出(横たわり突き出ている)し、エンケン蟠屈(伏したり、うずくまったり)臥竜奔蛇の如く、北は田辺域と相対し、勢海(伊勢の海)に面する湾々大いさ十有余里、其の間蒼顔秀壁の削立、曲浦長洲(曲がりくねった海岸や長い浜)の聯亘(つらなり)、漁村の点綴、 嶋嶼の 独り稲若水香太仲(人の名)の論ずる所は確かに当たれリ。その言に曰く、「凡そ地に火脉有り、水脉あり。ニ脉相交れば温泉と成る。その性(性質)極めて熱く、物に触るれば即ち変ず」と。又曰く、「温泉は必らず硫黄を生ず、けだし熱泉のカスなり」と。 按ずるにこの地もと鉛山と称するは地鉛を出すを以ってなり。鉛の性たる甘寒(きびしさがまるむ)無害、極熱に之に触るれば。相和して調適(適温にして)浴す可し。且つ硫黄氣無き者はそれこれに由るか。それ物の崚烈なるは効を取ること速かなり(効き目が早い)といえどもその害も亦多し。それたヾ温柔和ク(あたゝか)なるは、以て功を奏するに足り、後の害有るなし。貴しとなすゆえんなり。昔時駕相ついで臨幸せられしはこれが為に非ずや。かくの如くなれば乃ち氣を助け体を温め、ヨウ滞(ふさぎとヾこおること)通じ、関節を利し、結べるを解き痼(持病)をひらき、きずをいやす。もろもろかくの如きの類、皆この湯の験ある所なり。而して四方来り浴するもの、その人宜しくこれを自得(知る)すべし。 いはんや奇偉秀絶の観有り、こもごも相たすけ以って病をのぞくこと、有馬王の称する所の如きか。余命を奉じて此の地を巡省す。父老請ひて曰く吾が邑の温泉は天下に貴く最も古に顕はる。願はくは其の事を記し、來浴者をして徴あらしめんと。こゝに於てこれを記して以て之を石にほる。(原漢文) 天保三年壬辰孟冬 一金紫光祿太夫清原宣明郷題額 仁井田好古模一甫撰井書 |
建立 1964年 |
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