地震・津波の記録

西暦

年号

 

685

文武

14

4

 

温泉不出

牟婁の湯(湯崎温泉)の湧出一時停止した旨紀伊国司報ずる。

887

仁和

 

 

紀伊半島が震源 M 8.3   ネット検索

1099

康和

 

 

紀伊半島が震源 M 8.2   ネット検索

1361

正平

16

 

 

紀伊半島が震源 M 8.3   ネット検索

1586

天正

13

 

 

岐阜北部震源 M 7.8      ネット検索

1605 慶長     慶長地震 M7.9 房総沖、紀伊水道沖が震源
1677 延宝     三陸沖が震源 M8.0

1703

元禄

16

11

22

元禄地震、M 8.1 房総沖が震源。死者5233人。大津波が襲来。

1707

宝永

4

10

4

大地震津波。(「岩城氏の墓陰」「万代記」ほか)

宝永地震 M8.4 紀伊半島が震源。死者2万人。土佐では大津波が発生。  ネット検索

参考 岩城氏墓陰の文   安政四年津波潮位と津波警告板

1854

(嘉永)

安政

(7)

(11)

(4)

11/4〜5、大地震大津波、湯崎温泉湧出とまる   (安政地震)

正確に書くと、嘉永7年11月4日[1854/12/23(土曜)]です。
安政の改元日が、安政1年11月27日[1855/1/15(月曜)]ですから、地震の23日後に嘉永から安政に変わったんです。

12 23

安政東海地震 M8.4 関東から近畿まで大被害。死者数千人。

ネット検索

24

安政南海地震 M8.4 32時間後に再び発生。中部から九州にかけて被害大。死者3万人。 ネット検索

参考 岩城氏墓陰の文

1891 明治 24 10 28 膿尾地震 M8.0 岐阜県西部が震源。死者727  ネット検索
1923 大正 12 関東大震災。 我が帝都東京、横浜方面を一瞬の間に修羅の焼土と化した大地震起こる。
10 本村では、小学校、婦人会、一般村民に東京方面の被災地へ送る慰問袋の募集にかかる。
1924   13 8 13 午前二時四十分大地震、引続き余震あり。八月十四日は盆であるが人心恐々大津波が来るかも知れないと食糧をもって山に避難したが、幸い被害なし。
1932 昭和 7 2 20 三陸地方地震津浪に義捐金。 被害甚大な同地に義指金を送るため募金して、本日発送する。
1943   18 4 12 地震あり時計の振子とまる
9 10 鳥取市中心に大地震あり被害甚大
1946   21 12 21 南海大地 震

まぶの湯温泉湧出止まる。

去る十一月十日ポーリングで湧出した八十度、一時間二百石も出ていた温泉が止まってしまう。

羽衣地区、網不知地区、羅災者百余名を白浜国民学校講堂に、二十一日午後より四日間収容給食。

被災者に対し、二日間炊出しと共に食糧の特配を行う。

米一人一食一合、乾パン一袋、生パン六〇匁。

食糧特配一人一日三五〇グラム(年令を問わず)

家屋流出 五日分、 床上浸水 三日分、 床下浸永 一日分

白浜国民学校では、初二児童加藤良次郎君が水にのまれて不帰の客となり、羅災職員三人、児童二四〇名に及ぶ

水道断水により飲料水困難を来たしたので、初五年以上の児童、職員が二十七日まで、青年団員らと共に羅災者への給水奉仕を続けた。

水道が昭和九年六月通水開始されてから、御用済であった瀬戸の芝井戸や清水井戸が飲料水用などに重宝された。

23 町では床上浸水以上の羅災者に証明書を発行して、応急救援物資などの配給に資する。
26 電灯は、寸断された送電線の復旧作業が進み、二十六日夜から点灯されて、五晩を配給のローソクで過した町民に明るさを取りもどさせた。
30

 

水道会社では、田辺市から船で飲料水を運んだり、大阪市からタンク車や給水袋を借入れ、霊泉橋のところまで送水して、そこから給水袋で各戸へ配るなど応急策をとる一方、取り敢えず霊泉橋のあった海中に松材を打ちこみ、その上に水道管を渡し、両端を接続する仮工事を昼夜兼行で行い、ようやく新年の急場をしのぐことになった。
当時収容された遺体は十九体であったが、四遺体は田辺から漂流して来た人達の遺体であることが判り引きとられ、一人は遂に氏名すら判明しない無縁者であり、残り十四人の遺体はことごとく綱不知地区在住の方々であった。
津波による死亡者調書 昭和二十一年十二月三十日現在
津波による負傷者調書 昭和二十一年十二月三十日現在

震災・津波被害調書

一、家屋被害

ニ、人畜被害  死者14名 重傷者5名 軽傷者31名

三、被害総額75,000,000円

上家屋被害調書に依る家屋被害25,000,000円

白浜町公共施設被害調書  昭和21年12月30日

戸数・人口状況

31 震災直後から、青年団・警防団では昼夜の別なく町内を巡回して警備にあたり、正月も十日まで続行すると申合わせる。
1947   22 1 18 霊泉橋を一回通ると一円とられ、往復二円とは高いと新聞に出る。
24 災害後、旅客が来なくなり、温泉町はピンチになった。
25

家屋流失などの災者を応急住宅ができるまで収容依頼して収容。(六月一日現在、筒収容中のもの)

 大阪市白浜健民修練所 (元雁風荘)    一〇世帯  三五人

 坂田国立大阪病院白浜分院(元陸軍療養所) 二世帯  一二人 

 国立温泉病院(元傷痍軍人療養所)       一世帯    二人

30 午後一時三十分より本覚寺において、岩城町長代理助役喪主となり、東白浜地区震災犠牲者十四遺体と無縁者一遺体の悲しみの合同葬を執行する。
2 12 地震、津波で家屋全壊半壊、床上浸水の羅 災者に対し、一世帯金二千円を封鎖預金から引出すことが認められる。
23 西富田村で津波のときの漂流物をいんとくしたと、田辺検事局に書類を送検される。
4 26 南海大地震直後に発足した白浜町災害復興対策本部は、本日の町会で解散を決議。
12 12 坂田に八戸の震災者住宅を建築着工。
14 霊泉橋、東白浜道路竣工式を県神尾土木部長も参列して、熊野三所神社社務所で九十五名参加して行う。
20 夜、浦島旅館で震災一周年を迎えて回顧座談会を開き、貴重な体験談などをきく。
21 午前十時より東白浜地蔵堂において、町主催の震災犠牲者十五遺霊の一周忌法要慰霊祭を執行する。
1948   23 6 15 富田川口震源で激震
28 福井県を中心とする北陸地震おこる。罹災者数十万人と言う。
7 6 北陸震災見舞金募集で、打合会を開く。
  7 西連青では、全団あげて一週間程度復旧作業の為、長野へ百名、秋津川へ五十名、富田川筋へ三十名。
1952   27 3 4

三陸・北海道大地震、大津波で、被害甚大。

1960   35 5 24 チリ津波