日本書記・斉明天皇

日本書記第二六天豊財重日足姫天皇の条の内に次ぎの記載がある。

  「三年秋(中略)九月、有間皇子 性黠(ひととなりさと)し、陽(いつは)り狂(なぶ)れて云云(しかしか)。牟婁(むろ)の温湯(ゆ)に往きて、病(やまい)を療(をさ)むる偽(まね)して、来りて国の体勢(すがた)を賛(ほめ)めて曰く、纔彼(ひたか)の所(ところ)を観(み)るに、病(やまい)、自(おの)づから 蠲(のぞこ)りぬ云云。天皇聞(きこ)しめし悦(よろ)びて、往(ゆき)まして観(みそな)はさむと思欲(おもは)す中略)

  四年(中略)冬十月庚戌朔甲子、紀の温湯(ゆ)に幸す。天皇皇孫建王を憶(おほ)しいで愴弥悲泣(いたみやかなしみ)たまふ、乃ち口号(くちづからうた)ひて曰く山越(ヤマコエテ)、海渡(ウミワタルトモ)、面白(オモシロキ)、今城内(イマキノウチハ)、忘(ワスラユマジニ){其の一}湊(ミナトノ)、潮下(ウシホノクダリ)、海下(ウナクダリ)、後闇(ウシロクレニ)、置行(ヲキテカユカム)、愛(ウツクシキ)、我雅子(アガワカキコヲ)、置行(オキテカユカム){其の二}泰大蔵造万里(はだのおほくらのみつくりまり)に 詔(みことのり)して曰く、斯(こ)の歌を伝えて、世に忘れしむること 勿れ。十一月庚申朔壬午、留守官蘇我赤兄臣(ととまりまもるつかきさをあかえのおみ)有間皇子に語りて曰く、天皇の治(しら)す政事(まつりごと)に三の失有(あやまち)り、大に倉庫(くく)を起(た)て、民の財を積み緊む、一なり。長く渠水を穿りて、公(おおやけ)の糧(くひもの)を費(あとしつや)す、二なり。舟に石を載せて、運び積(つみ)みて丘(おか)と為す、三なり。有間皇子乃ち赤兄が己に善きことを知りて、欣然報答(よろこびこた)へて曰く、吾が年、始めて兵を用ふ可き時なり 。甲申、有間皇子、赤兄が家に向(ゆ)きて楼(たかどの)に登りて諜(はか)るに、 夾膝自(おしつきおのづ)からに断れぬ。是に相の不祥を知り、倶に誓ひて止む皇子帰りて宿る。是に夜半に、赤兄、物部朴井連鮪(もののべのゐのむらじしび)を遣いして、宮を造る丁(よぼろ)を率ゐて有間皇子を市経の家に囲ましむ、便ち駅使を遣して、天皇所に奉(もう)す。戊子、有間皇子と守君大石、坂合部連薬(さかのべのむらしくすり)、塩屋連このしろ(しほやのむらしこのしろ)とを捉へ、紀の温湯に送りたてます、舎人新田部連米麻呂従へり。是に皇太子親ら有間皇子に問ひて曰く、何故か謀反(みかどたぶけんと)する。答へて曰く、天(あま)と赤兄(あかえ)と知る、吾(おの)れ全(もは)ら解(し)らず。庚寅、丹比小沢連国襲(たちひのをさはのむらじくにそ)を遣して、有間皇子を藤白阪に絞(くび)らしむ。是の日、塩屋連このしろ、舎人新田部連米麻呂を藤白阪に斬る。塩屋連このしろ、臨誅言(ころされおとしてまを)さく、願くは右の手をして国の宝器を作らしめよ。守君大石を上毛野国(かみつけのくに)に、坂合部連薬を尾張国に流す」(以上岩波文庫本による)

 天豊財重日足姫天皇は斉明天皇のことで、斉明天皇は第35代皇極天皇の重祚で第37代の天皇、その4年は西暦658年で昭和36年から1,304年前で、飛鳥時代と言われるころに当る。牟婁の温湯は現在の白浜温泉湯崎地区のこと(紀ノ温湯、武漏の温湯というも、すべて湯崎のこと)である。この湯崎の温泉が斉明の3年(西暦657)に有間皇子が遊ばれたのを見ると、そのころすでに大和の朝廷に知られていたことはたしかだが、恐らくはそれよりも10数年前から知られていたかと推考される。 故喜田貞吉博士が、摂津の有馬と、伊予の道後と紀伊の牟婁の3温泉は奈良朝以前に於いてしばしば天皇の行幸を辱うし、その名史上に著しい(昭和7、2雑誌旅と伝説所載「史的三名湯」)と推称している。しかし紀の温湯では斉名天皇は四年「五月、皇孫建王(みまごたけるのみこ)八歳にして 薨(みまか)せましぬ。今城谷(いまもだに)の上に殯(もがり)を起して収めたまふ。天皇、本、皇孫の順(みさを)あるを以て、器重(ことをあがめ)たまふ、故に衰に忍びず、傷慟(いたみきとひ)たまふこと極めて甚し」かったが、紀の温湯に幸してからも、いたみ悲しみたまいて、建王をおもいたまう歌をつくられているし、有間皇子の悲劇も起っていて、史上では有名なものにしている。なお有間皇子の事件によって、皇太子中大兄、乃ち第38代天智天皇も同時に来ていられることがわかる。

 白浜温泉の歴史的の文献は、日本紀の巻の第26の以上の記載にはじまり、1300余年の昔から知られていることがこの正史の上で明かにされているのである。


 関連文献 その一 その二  その三 有馬皇子の句碑