「白浜」という名の起り

 白浜町は、藩政のころは瀬戸、鉛山の2村であった(後ち合併した富田4ヶ所村は富田荘といい別で、瀬戸、鉛山は田辺荘であった。ここでは富田を除く)明治22年新町村編成の時合併して瀬戸鉛山村となったが、鉛山は今の湯崎区で温泉場であり、湯崎の名で宣伝していた。それがそのころ想像もせぬ白浜という名になぜなったか。

 白浜は白良浜を約したもので白良浜に基く名であることは云うまでもない。しかし白浜になるまでには、ちょつとした曲折がある。大正8年小竹岩楠氏らが白浜開発に乗出した時、新湯崎温泉土地会社とする案があったが、経営した現白浜の土地は、殆ど瀬戸の区域に属してをり、所有者も瀬戸の人が多かったので、瀬戸の人々の気にされるような名称はつけられない。ところが、明治の地券が発行された時、瀬戸と鉛山は温泉の所有権を争うて長い間起訴し初審再審復審つづけ双方その費用にヘトヘトとなり最後に無条件で引分けとなった。その感情のシコリが残っていて、新湯崎では行けなくなり、白良浜温泉土地という社名にした。しかし白良浜では長い感じがするので、杉村楚人冠氏が経営地へ雅名をつけに来た時「白良(しらら)として「浜」を省く案も出た。ところが「しらら」を持ち出さないうちに、そのころ、大阪、神戸、和歌山、勝浦間に大阪商船の急航船があって、大阪商船も白良浜温泉の宣伝を盛んにやってくれ、この点では大阪商船は白浜の大恩人であるが、ことに熱心だった同社庶務課長池沢源次郎氏は「白良浜」も「白良」もとらず。独自で「白浜」を慣用した(湯川宗城明光バス30年史)。

 これが案外に浸透していつしか一般に用いられるようになり、白良浜温泉土地会社白浜温泉土地会社と改めたのを初め、一般に白浜というようになり、国鉄の駅名も白浜口となった。かくして遂に町名とまでなった

参考文献 白浜温泉史 昭和36年4月5日発行