日本観光学会研究報告第3集(1965) 観光開発の問題点 白浜温泉を例として 小池洋一 (注、白浜町役場 40、8、-5の受付の印) |
観光開発はいま地域開発の一環としてとりあげられており、その場合もまた工業開発と同様に民間資本の誘致がもくろまれている。府県によっては既に観光資本に対する誘致条例を施行したところ(観光誘致条例は現在山梨県、長野県、奈良県、徳島県で施工している。)もあるほどである。 観光地を投資の対象するところの、したがって観光地の諸物件を商品化してゆく過程としての観光開発は、すでに産業革命の進展とともに始められてきたものであるが、それがどのような問題を地域に派生せしめるものであるか、和歌山県の白浜温泉におけるそのような観光開発の先例をとりあげて検討してみよう。 1、観光資本による白浜の開発 白浜温泉は古くから知られた温泉を中心に自然に成長してきた観光地であるかのように現在では思われているが、実際は第1次大戦後から民間資本によって開発されてきた新しい観光地であるる 「白浜」という名称そのものが正式には昭和15年に町制を施行した時以来のものである。それまでこの地域は、明治22年村制施工の時に藩政府としての瀬戸村と鉛山村とが合併してできた「瀬戸鉛山村」であったもので、この村名には何ら温泉を思わせるものがない。しかし「湯崎の湯」といわれた自然湧泉が鉛山村には古くからあったもので、これは日本書紀に「紀温湯」と記されているものであろうとさえいわれている。しかし鉛山村という村名はその温泉とは関係がなく、また現在の白浜温泉はこの湯崎の湯が中心となって発展したものではなく、当時はまったく温泉の湧出がなかった瀬戸村の領内に、第1次大戦後人為的に開発された温泉を中心としているのであ。 観光地として開発されるまでの温泉の利用は、瀬戸村の 古文書に「農人漁人の者共日毎に夕帰りに湯あび仕り労を相休め、温湯を心宛に終日寒さを忍び稼仕り候」とあるような状況であった。当時この村は農漁業によって生計を立てていたもので、温泉は収入源としての役割を果たしてはいなかったことが、温泉の名称を村名に使われなかった理由と思われる。したがって鉛山村の本村である瀬戸村の村民は自由に湯崎の湯を使う権利を持ち、湯番は瀬戸村の人が当たっていた。 しかし農閑期には近郷の農民の湯治客があり、また熊野参詣路にも近いため時には文人墨客の訪れもあって、江戸時代後期頃には「紀伊続風土記」に、鉛山村は「四方の浴客日に集り村中六十余戸皆浴客の旅舎となり」とあるような状態になることもあったようである。そのためにあがる入湯料ををめぐって、瀬戸村と鉛山村との間に争論が行われた記録も二度に亘ってあるくらいである。瀬戸村が入湯権をもちながらも、温泉のある鉛山村を羨望したことによるもので、この両村民の対立感情はその後もかなり強く尾を引いている。そしてこの対立が後に外部の資本を瀬戸村の人々が導入し、湯崎に対抗して自領内に温泉採掘を行わしめる動機となった。 瀬戸村に外部資本が導入されたのは大正8年で、まもなくその領内の白良浜での温泉試堀に成功した。白浜温泉の名称はこの白良浜の名を縮めたものであり、やがて昭和8年紀勢西線が開通した時には駅名に白浜口が採用され、ついに町制施工の時に白浜町と名づけることになった。この間にかつて田畑にすぎなかった白良浜付近が古い湯崎の温泉地をしのいで町の中心街に成長した。つまり白浜温泉は観光資本による開発の成果として出現した観光地であり、その意味で観光開発の問題点をさぐる事例となりうる。 |
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